第38話:生ける伝説の「傷」、そして不敗王者が語る真実
小説講座の講師として、第7部・プロロー
1.熱風のナイター、標高の罠
群馬県みどり市。標高約115メートルという、からくり競艇場の中で最も高い場所に位置するのが「ボートレース桐生(前橋)」である。
この水面を語る上で欠かせないのは、日本で初めてナイター競走を開催したという伝統と、その独特な「気圧」にある。標高が高いため空気が薄く、通常のセッティングではマブイの燃焼効率が極端に落ちる。さらに、冬場には赤城山から吹き下ろす「赤城おろし」と呼ばれる強烈な突風が、水面を激しく叩きつける。
からくり競艇機にとって、気圧の低さは「マブイの暴走」を招きやすい。薄い空気の中で酸素を求め、機体が過剰にマブイを吸い込もうとするため、制御を誤れば一瞬で内部崩壊を引き起こす。大宮機艇教習所の上田通彦校長がかつて「勝利への執着が機体を壊した」と語る悲劇の舞台の多くは、この気圧と風が牙を剥く桐生の水面であった。
2028年9月1日。
下関での歴史的快挙から数日。速水誠と瓜生俊樹は、熱狂の渦から離れ、自分たちの原点である「大宮機艇教習所」の門を潜っていた。教習所の廊下には、現役候補生たちの激しい訓練の声が響いている。かつて自分たちもあの中にいた。だが、今の二人には、校舎の奥にある「校長室」から漏れ出す、計り知れない重圧がはっきりと感じ取れた。
「失礼します」
誠が扉を開けると、そこにはからくり競艇界の「生ける神」として知られる校長、上田通彦が座っていた。生涯成績1100戦1080勝。その驚異的な数字の裏に隠された真理を、誠たちは今日、初めて目にすることになる。
「よく戻った。……1,000と0の覇者よ」
出迎えた上田の顔、そして机の上に置かれた指には、隠しきれない無数の縫合跡が、まるで地図の等高線のように刻まれていた。最新の再生医療すら拒絶するほど、その傷跡は深く、彼の魂にまで食い込んでいた。
「校長……そのお体は……」
誠の問いに、上田は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「これか? 栄光の代償にしては、少々見栄えが悪いな。……誠、お前たちが倒した大内と同じだ。私もかつて、圧倒的なマブイを誇っていた。だが、賞金王決定戦という究極の舞台では、その強大なマブイこそが猛毒に変わる」
上田が語ったのは、彼が全盛期に制覇した賞金王決定戦の決勝であった。当時、上田は無敵だった。勝利を確実にするため、自身の全マブイをエンジンの燃焼室に無理やりねじ込み、世界を書き換えるほどの加速を得た。しかし、機体は「主の傲慢」に耐えきれず、ゴール直前で悲鳴を上げたのだ。
「機体内部でマブイが爆発した。金属の破片が散弾のように飛び散り、私の指を裂いた。漏れ出した超高純度のマブイは、私の細胞を焼き切り……再生すら叶わぬ呪いを刻んだのだ」
上田は震える手で、古いアルバムの「1,100戦目」の写真を指し示した。そこには、大破した機体から笑顔で這い上がる、血まみれの上田の姿があった。
「1080勝。私は勝ち続けた。だが、残りの20敗は……勝利への執着が、私自身の体と機体を壊した結果だ。誠、俊樹。お前たちが大内に勝てたのは、マブイの強さではなく、機体と対等でいたからだ」
上田の膝の上には、一匹のフレンチブルドッグ「大福」が丸まっていた。シロが鼻を近づけると、大福は片目をうっすらと開け、短く鼻を鳴らした。
「……特に、あの桐生の夜は、今でも昨日のことのように思い出す」
上田の語る言葉が、一気に熱を帯びる。かつて桐生競艇場で行われた一般戦。全速で突っ込んだ1マークで他艇と接触し、上田の機体は空中で三回転して水面に叩きつけられた。
「跳ね上がった自機のプロペラが、私の顔を切り裂いた。超高速回転する金属の刃がヘルメットを割り、頬から顎にかけてを容赦なく削り取った。ハンドルを握っていた指は、衝撃で砕け……皮一枚で繋がっているだけの状態だった」
駆けつけた救護隊員は、今でもその光景を悪夢に見るという。血の海の中で、意識を失いかけていた上田は、隊員の胸ぐらを掴んでこう言ったのだ。
『……まだ、走れますか? プロペラは……生きてますか……?』
「隊員は絶句していたよ。指が千切れかかっている男が、痛みではなく再レースのことだけを考えていた。私はその事故で、一度死んだのだ」
上田は、自分の指を慈しむように撫でる大福の頭に目をやった。「私は1080勝を積み上げたが、その傷が疼くたびに思い出す。勝つことよりも走ることに飢えていた、あの狂気の日々をな」
上田校長は、誠と俊樹の綺麗な指、そして傷一つない若々しい顔を見つめた。その瞳には、かつての怪物の鋭さと、孫を見守る祖父のような慈愛が同居していた。
「誠、俊樹。お前たちが大内に見せたのは、狂気ではない。光だ。……俺のような傷跡を残すな。この大福やシロ、そしてお前たちを支える仲間のように、誰かに寄り添い、誰かに支えられながら、笑ってゴール板を駆け抜ける……。それが、俺が現役時代には気づけなかった最後の技術だ」
その言葉に、誠は自分の指を強く握り締めた。あおいと繋いだ手の温もりを思い出す。俊樹は、足元でパスタの背中を撫でながら、父が自分を助けた時の「無」の意味を再確認していた。不敗のレジェンドが、自らの血塗られた過去を曝け出してまで伝えたかったこと。それは、勝利の先にある「人としての尊厳」と「機体への愛」であった。
「……校長。俺、忘れません。俺の39号機を、絶対に悲鳴を上げさせたりしない。最後の一周まで、笑ってあいつと一緒に飛びます」
「……俺もだ。パスタと、誠と……この指で、新しい歴史を掴む」
上田は満足そうに深く頷くと、校長室の窓を開けた。そこには、夕日に照らされた教習所の練習水面が広がっていた。誠と俊樹は深く頭を下げ、校長室を後にした。背後で、大福が「頑張れよ」と言うように力強く一吠えした。




