第37話:水神祭の飛沫、そして吉備の「風」が止まる時
からくり競艇界において、「水神祭」はレーサーにとって最も名誉ある、そして最も手荒い祝福の儀式である。本来は、デビュー初勝利、初優勝、あるいはSGという最高峰の舞台を初制覇した節目に行われる。仲間たちの手によって担ぎ上げられ、そのまま水面へ投げ込まれるというこの伝統は、単なる祝勝以上の意味を秘めている。
冷たい水面に投げ込まれる際、レーサーが抱えていた「勝利への執着」や「機体との極限同期による精神的負荷」は、海水という巨大な導体を通じて大地へと逃がされ、魂が浄化される。水神祭を終えたレーサーの顔が晴れやかなのは、積み重なった重圧が洗い流された証なのだ。また、共に飛び込む仲間たちとの間に、言葉を超えた「マブイの紐帯」が結ばれる神聖な瞬間でもある。
2028年8月24日。下関競艇場。
昨夜、衆望万魂祭という伝説的な戦いを終えた水面は、嘘のように穏やかな表情を取り戻していた。しかし、特設大桟橋の上だけは、昨日以上の熱気に包まれていた。
「よっしゃあ! 誠、俊樹、覚悟はええか! 祝杯の前に、まずはこの下関の水を腹一杯飲んでもらうぞ!」
音頭を取るのは、山口支部の精神的支柱であり誠の師匠、黒田瑛人である。
「ちょ、ちょっと待ってください師匠! この高さから投げられるのは聞いてないですよ!」
「逃がすか、誠! お前が空を飛んだおかげで、俺の配当も飛んじまったんだからな!」
海野田八雲が笑いながら誠の足を掴む。かつての冷徹な「亡霊」の面影を完全に失った瓜生俊樹も、寺田明や篠田裕美率いる女子チームに囲まれ、逃げ場を失っていた。
「せーの、ドボン!!」
豪快な水飛沫が上がり、二人の体が下関の海に吸い込まれた。続いて、「俺も混ぜろ!」と叫びながら大峰幸太郎や、福岡から駆けつけた西野貴志までもが、ユニフォームのまま次々と飛び込んでいく。水面は一瞬にして、笑い声と歓喜の飛沫で溢れかえった。
その喧騒から少し離れたところで、戸惑ったように立ち尽くしていた男がいた。SS大内胤賢である。昨日の敗北で10万マブイは一時的に枯渇していたが、その瞳からは鋭い棘が消えていた。
「大内、お前もだ! 王者様だからって、水に濡れねえなんてルールはねえぞ!」
黒田がその太い腕で大内の肩を掴み、無理やり海へと道連れにした。水面に顔を出した大内は、鼻に入った潮水に顔をしかめたが、すぐに吹き出した。
「……冷たい。こんなに冷たくて、気持ちいいものだったんですね、競艇場の水は」
数値、格付け、完璧主義。それらに支配されていた若きSSが、生まれて初めて、マブイの数値に関係のない心からの笑みを浮かべた瞬間であった。
桟橋の上では、シロとパスタが誇らしげに喉を鳴らし、主たちにかかる水飛沫を浴びて、ちぎれんばかりに尻尾を振っていた。
夕暮れ時。水神祭の喧騒が落ち着き、レーサーたちがそれぞれの祝宴へと向かう中、速水誠は一人、桟橋の端に座っていた。濡れた髪をタオルで拭いながら、夕日に染まる関門海峡を見つめる。昨日、自分が飛んだ空はもう星を待つ藍色に変わり始めていた。
「……やり遂げたんだな、俺たち」
呟いた誠の背後に、カツカツと小気味よい、しかしどこか迷いのある足音が響いた。聞き慣れたその音に、誠の背筋が少し伸びる。
「……バカ誠。そんなところで濡れたまま座って。風邪引くわよ、今度は私が看病してあげなきゃいけなくなるじゃない」
振り返ると、そこには児島から新幹線を飛ばしてきた守屋あおいが立っていた。いつもの勝負服ではない私服姿。しかしその瞳の強さは、スリットラインを見つめる時のそれと同じであった。
「あ、あおい! 本当に来てくれたのか」
「当たり前でしょ。あんたたちが下関であんなに無茶苦茶するから、児島までニュースが届いて、心配で整備の手が止まっちゃったんだから。責任取ってよね」
あおいは誠の隣に歩み寄り、すとんと腰を下ろした。潮風にあおいの髪がなびき、いつもより少し甘い香りが誠の鼻をくすぐる。
「……ねえ、誠。昨日のレース。あんたの1,000のマブイが白銀色に輝いてるのを見て……私、モニターの前で震えが止まらなかった。嬉しかったけど……同時に、怖くなったの」
あおいの声がかすかに震えていた。彼女は自身の膝を抱え込んだ。
「あんたがどんどん凄くなって……1,000のマブイしかなくても、誰よりも空高く飛んで。このまま、私の手の届かない遠い場所に行っちゃいそうで。……私、置いていかれるのが一番嫌いなのよ」
あおいは意を決したように、誠の濡れた上着の裾をぎゅっと掴んだ。誠は彼女の小さな手の震えを感じて、息を呑んだ。
「……ライバルだって、ずっと思ってた。追い越すべき目標だって言い聞かせてきた。でも、もう嘘つけないわ。……私、あんたのことが好きなの!」
「あおい……」
「1,000のマブイしかなくても、バカみたいに真っ直ぐで。誰よりも空が似合う、誰よりも優しい……あんたのことが、世界で一番好きなんだから! 文句ある!?」
彼女の告白は、スリットコンマ01の全速捲りのように、誠の心のど真ん中に突き刺さった。耳元まで真っ赤に染めながら、それでも逸らさずに自分を見つめるあおいの瞳。そこには、どんなSGタイトルよりも重く熱い、2,000のマブイが宿っていた。
誠は驚きで固まっていた。だが、今目の前にあるのは、一人の女性が、一人のレーサーに対して命懸けで放った本物の想いであった。誠はゆっくりと、あおいの手の上に自分の手を重ねた。
「……あおい。ありがとう。準優勝戦で負けた時、あおいの『負けたら許さない』っていう言葉があったから……あの絶望の淵で、白銀の光を見つけられたんだ」
誠は照れくさそうに、しかし真っ直ぐにあおいを見つめ返した。
「俺のマブイは少ないし、これからも無茶ばかりするかもしれない。でも……この1,000のマブイの半分は、あおいに預けるよ。俺が空を飛ぶ時、重力に負けないように、地上で俺を繋ぎ止めていてほしいんだ」
師匠たちに教えられた格好いい台詞はどこかぎこちなかったが、その言葉に含まれた誠意は、あおいの心を溶かすには十分であった。
二人の手が重なった瞬間、誠の白銀のマブイと、あおいの情熱のマブイが共鳴した。周囲の空気が穏やかに発光し、二人のシルエットを夕闇の中に浮かび上がらせる。
「……半分なんてケチなこと言わないでよね。あんたの全部、私が管理してあげるわよ」
あおいはようやくいつもの不敵な笑みを浮かべ、誠の肩にそっと頭を預けた。
「あおいの2,000マブイと、俺の500マブイか……。合わせても2,500しかないけど、なんか世界中の誰にも負けない気がするよ」
「当たり前でしょ。私がついてるんだから」
遠くで、俊樹とパスタがその様子を見つけてニヤリと笑い、シロが空気を読んで「ワフッ」と短く吠えた。下関の夜が明け、新しい時代が始まる。山口の「持たざる少年」は今、最も大切な「持てる者」として、次なる水面へと目を向けた。




