からくり神話の反逆
二〇二九年二月二十一日。ボートレース下関、SG「衆望万魂祭」――最終優勝戦。
骨を凍らせるような真冬の乾いた寒風が関門海峡から吹きすさぶ中、カクテル光線がどす黒いプール水面を照らし出していた。三コースに据えられた三十九号機のコックピットの中で、俺――速水誠の表情には、かつて恐怖に怯えていたあの少年の面影はもうどこにもなかった。
左手で触れるのは、岡山の守屋あおいから送られてきた特製プロペラの冷たい金属の感触。黒田グループ、平野グループ、ペキさんのチーム、大峰一門、西野さん、そして守屋グループ。かつて大宮の掃き溜めで孤独だった俺の背中には今や、西日本すべての職人たちと勝負師たちの意地が、最強の翼として宿っていた。
(力むな。一千しかない極小の血を、旋回中の数秒間、機体の隅々まで血管のように循環させ続けろ……!)
インカムからスーのフガフガとした呼吸が届く。俺の一千の金属性マブイが、三十九号機のボルト一本一本へと収束していく。
「――大時計、始動ッ!!」
白針がゼロへ突き刺さった。スリットラインを全艇が一斉に弾け飛んだ瞬間、一号艇の大内が「氷極凍結旋回」を最大出力で放った。絶対零度の拒絶反応が、絶望となって眼前に立ち塞がった。
だが俺は一歩も逃げなかった。
(大内が作った摩擦マイナスの真空に、血管の熱を全部流し込む。今日は、楔で終わらない!)
「――血管循環・凝縮一閃ッッ!!!!」
三十九号機の船底が、あおいの特製ペラの超高剛性パルスと同調し、鋼の刃へと変形した。大内が作り出した絶対零度の空間へ、右舷ハイドロステップのエッジを真っ正面から突き刺す。物理法則が悲鳴を上げ、大内の真空が内側から切り裂かれた。
大内の全神経と探知レーダーが俺に集中した。それこそが、最大の死角を生み出す瞬間だった。
「……悪いが、その死角は、僕が使わせてもらう」
一切の音も、水飛沫も、気配が完全に消えた。四号艇・瓜生俊樹の白い艇が、大内がすべての流体を吸い上げたことで生まれた最短距離の影へと、音もなく滑り込んでいった。「無音の背後滑走」で大内を最内から完全に差し切る。
チェッカーフラッグ。一着、瓜生俊樹。二着、速水誠。
ピットへ帰投した後、俺はしばらく三十九号機のカウルから手を離せなかった。第26話のグランプリで相棒に一歩届かなかった悔しさが、今日また繰り返された。だが今日は、前回と何かが違った。あの時より、ずっと近かった。
瓜生が隣に立った。眼鏡をゆっくりと外して、静かに言った。
「誠。今日のお前の「血管循環」、初めて俺の数式が驚いた。楔だけじゃなかったから。……次は、俺も本気で逃げる」
「それがいい」俺は笑った。「お前が本気で逃げる相手を、俺が本気で追う。それが俺たちの本当の方程式だ」
「……馬鹿な。僕の十万の方程式が、一千とゼロの塵芥に、ハッキングされただと……」
大内が、初めて声に出した。「計算上存在しない」と言い続けてきた男が、今、自分の数式の外側に立っていた。その指先が、わずかに動いた。修正している。俺たちを、初めて本当の意味で射程に入れた。
それが何より怖くて、何より燃えた。
「ガハハ! 見事たい、山口の若造ども!」
大峰さんが豪快な笑顔で二人の肩を叩いた。黒田師匠がニヤリと口角を上げる。ピットの裏口からは、スーを抱えた菜奈が、今度は泣いていなかった。ただ、誇らしげに、力強く、俺たちを見つめていた。
「誠、瓜生くん。……お前たちは本物だよ。最初から、ずっと信じちょった」
スーが俺の足元で小さく鳴いた。その温もりが、疲れ切った俺の手に染み込んでくる。
三十九号機のハイドロバルブが、シュウと蒸気の息を吐いた。
次は、大内が本気で来る。その時、俺は「血管循環」と「楔」を同時に完成させる。持たざる者の進化は、まだ終わっていない。




