最強の翼
二〇二九年二月二十日。ボートレース児島、選手宿舎ロビー。
下関でオールスターが激戦を繰り広げるその頃、大型の電算モニターに、守屋グループの面々が釘付けになっていた。
「誠のやつ、また無茶な真似しやがって。一歩間違えれば脳のニューロンが焼き切れるぞ」
あおいの兄、守屋司。二十四歳。マブイ因子が完全休眠状態のゼロという究極の持たざる者だが、秒針の刻みを聴くように脳内の生体クロックだけで千分の一秒を計り取る男だ。その目が、三十九号機の高回転スピンドル音の波形データを見ながら、微かに細くなった。
「ペラの色が変わっている。ペキさんが叩き直した特製だな」
住友香織が肩を小突く。
「誠くんがおじさん達にクシャクシャにされてるの見て、あおいちゃんの拳がプルプル震えて最高に可愛いんだから」
「……あいつは本当のバカだから。あの下関のおじさん達に何言われても、また無茶なセッティングしちゃうんだから……っ」
あおいの声が、真冬のロビーの空気の中で微かに震えていた。
「あおい、データの準備をしておけ」司が静かに告げた。「準優勝戦が終わった瞬間、お前の叩き上げた電算データを暗号化無線で転送するぞ」
同刻、下関競艇場――準優勝戦、第十一レース。海峡からの寒風が吹きすさぶ中、四コースには西野貴志さんが牙を剥いた眼差しで陣取り、一コースには大峰幸太郎さんがインから巨大な流体波を構えていた。
「その一千のマブイ、全部俺たちの引き波に喰わせてやるからな」
「――大時計、始動ッ!!」
白針がゼロを刻む。全艇が時速百キロを超えて弾け飛んだ。四コースから西野さんが紅属性の強襲を内側へ絞り込み、インから大峰さんが俺の進路を完全に封じにかかる。
力むな。右舷エッジへ、一千を血管のように流し込め。ドリーム戦で真空の足場を体感した。あの感覚を、今度はプレッシャーの中で再現する。そして、怒りながら拳を握っているあおいの顔を思った。その熱を、エッジへ変換する。
「――凝縮一閃・真空の楔ッ!!」
三十九号機の船底が凍てついた反転波を抉る。西野さんの強襲を水面下の反動でエッジが切り裂き、大峰さんの流体の僅かな継ぎ目へ、研ぎ澄ました刃を突き立てた。
ゴール前の一瞬、先行する西野さんがシールドの奥で口元を動かした。声は届かなかった。でも分かった。「行け、若造」だ。
チェッカーフラッグが翻る。二着。明日の最終優勝戦への切符を、爪で手に入れた。
ピットへ戻ると、三十九号機の戦術モニターに、守屋あおいから暗号化された緊急電算通信が受信されていた。添付データは、対・大内胤賢用の特製プロペラ設計図。最下段には、あおいの手書きのデジタルメッセージが赤く残されていた。
『吸気の波形がガサガサで見てられないの。今すぐこのペラデータに叩き直して。明日の優勝戦で負けたら児島まで引きずり回して、満潮の海に沈めるからね』
俺は小さく笑った。だが、ヘルメットを脱いだ瞳の奥には、熱いものが猛烈に込み上げてきた。
黒田グループ、平野さん、ペキさん、大峰一門、西野さん、そして守屋グループ。かつて大宮の掃き溜めで孤独だった少年の背中には、今や、西日本すべての職人たちと勝負師たちの意地が、最強の翼として備わっていた。
一方、大内胤賢は控室の画面を冷たい目で見下ろしていた。
「寄せ集めの塵のマブイをどれだけ重ねても、明日の優勝戦で、そのすべてを凍結させて消し去ってあげますよ」
深夜。俺がスーを両腕で抱きしめて関門海峡の夜空を見上げていると、音もなく瓜生が隣に並んだ。眼鏡の奥の瞳が、カクテル光線の残光を受けて冷たく、しかし獰猛に冴え渡っている。
「一人で格好つけるなよ、誠。お前が水面で一番眩しく光り輝くなら……僕はその真下の死角で、世界のすべてを盗むだけだ。明日こそ、山口の本当のワンツーを獲るぞ」
「へへ……お前が世界で一番前に行くなら、俺に文句はねえよ、俊樹。明日、俺たちの本当の方程式を完成させようぜ」
スーが俺の足元で「ワン」と小さく鳴いた。関門海峡の夜空に、その声だけが静かに響いた。
明日、大内胤賢の絶対零度と、持たざる者たちの火が、ぶつかる。




