無音の背後滑走
二〇二九年二月、下関。SG「衆望万魂祭」――初日、第十二レース・ドリーム戦。
一コース・大内胤賢、二コース・黒田瑛人、三コース・速水誠、四コース・瓜生俊樹。山口支部の三つの流儀が揃い踏みを果たした水面に、数万の熱狂が関門海峡の紫紺の夜空を激しく染め上げていた。
「――大時計、始動ッ!!」
白針がゼロへと突き刺さった。全艇が時速百キロを超えてスリットラインを通過した瞬間、大内が「氷極凍結旋回」を放ち、独走の逃げ態勢に入る。後続は絶対零度の拒絶反応だけで外へ弾き飛ばされるはずだった。
しかし、その大内の真空の懐へ、真っ先に滑り込んだのは四号艇の瓜生だった。マブイゼロの極意が大内の十万の探知レーダーをすり抜ける。大内の機体が、初めてわずかにブレた。自分の真空に「無」が入り込んだことを、装置の精度が感知した瞬間だった。
インカムからスーの「フガッ!」という確かな呼吸がリアルに届き、俺の一千の金属性マブイが完全な一点の凪へと収束した。
(今だ……大内が作った摩擦マイナスの真空の航跡に、俺の刃をブチ込む!)
俺は右舷エッジへ一千を血管のように循環させ、大内が残した波紋すら立たない真空の道へ三十九号機の舳先を真っ正面から突き刺した。通常の艇なら弾かれるデッドスペースが、極限まで硬度を高めた俺のエッジにとって無限の加速を生む足場へと変わった。真空の道の上を走った瞬間、体が感じた。これだ、と。抵抗がない。重力がない。ただ前だけがある。
瓜生の消失が大内の感覚を奪い、俺の楔が真空の道を切り裂き、黒田師匠の「白鯨」が背後から逃げ場を塞ぐ。山口三連星の波状攻撃が大内の絶対零度をわずかに外へ膨らませ、その隙間を俺の金属性の刃が鮮やかに両断した。
「速水誠、ドリーム戦で大内を捉えたぁーっ!!」
アナウンスが関門の夜空に響き渡った。大内の機体がピットへ帰投する。あの男は一言も喋らなかった。ただ、指先が微かに動いていた。計算を修正している。俺たちを、初めて射程内に入れた。
そのことが、俺の背筋を総毛立たせた。
予選最終日、第十二レース。初日に自らの完璧な数式に傷をつけられた大内が、再び俺たちの前に立ち塞がった。スリットを越えた瞬間、大内は周囲のあらゆるマブイ粒子を強制吸引して敵艇の出力を枯渇させる絶対フィールド――「魂剥ぎ(ソウル・ドレイン)」を最大出力で発動した。
「計算上、マブイを持たない艇は存在しない。ゆえに四号艇は、この場に存在しない」
凍てつく海峡の空気が絶対零度まで引き裂かれる。だが、元からマブイが「ゼロ」の瓜生には、奪われるべき熱量が最初から存在しない。それどころか、大内が周囲のすべてを強制吸引した結果、第一マークには関門の満潮うねり全体が漆黒の機体へと引き込まれる、局所的な奔流が人工的に発生していた。
瓜生はその吸引の影――「無音の背後滑走」へと、音もなく全速力のまま愛機を滑り込ませた。相手の十万の熱量を逆に利用し、一寸の流体抵抗も受けないまま急加速する、隠密の深差し。
「四号艇の瓜生俊樹、魂剥ぎの嵐の真裏を、波紋すら立てずに滑り抜けた! マブイゼロの王者が、絶対王者を最内から完全に差し切ったぞぉぉーーーッッ!!」
俺は後方から、その光景を全身の鳥肌と共に目撃していた。
ピットへ帰投した瓜生が、いつもの不敵な笑みではなく、静かに目を伏せたまま三十九号機の隣に立っていた。眼鏡を外して、レンズを拭いていた。それだけだった。だが俺には分かった。かつて瓜生が語ったことのない、マブイという力に家族を奪われたという傷が、今夜の走りの中で、初めて何か別のものに変わったのだと。
「……計算どおりだ」
瓜生がようやく顔を上げた。その目が、珍しく赤かった。
「いや、計算の外側だった。認めるよ、誠。水の声は、数式より正直だ」
黒田師匠が背後から無言で俺たちの肩を叩いた。それだけで十分だった。
山口の持たざる者たちが今、本物の神話の領域へと、その確かな足跡を刻みつけていた。




