真空の楔
二〇二九年、二月。ボートレース下関。
SG「衆望万魂祭」。日本全国のファン投票によって選ばれし星たちが、関門海峡の地に集結した。入場行進の巨大スクリーンに、投票順位が映し出される。
第1位・大内胤賢(福岡・SS)。彼が歩む場所だけ数万の歓声が吸い込まれ、狂乱していた観客すらも、絶対零度のカリスマ性に圧倒されて静まり返る。第2位・鎌倉明奈、第3位・大峰幸太郎が続く。
そして第4位・速水誠(山口・S)。
グランプリ準優勝の実績が、持たざる一千の男をこの舞台に引き上げた。S級への特例昇格も、この順位も、信じられなかった。かつて倉敷の病院のベッドから、端末の画面越しに見上げるしかなかった最高峰の舞台に、今、俺は自分の足で立っていた。その重さを、しばらく飲み込むことができなかった。
ドリーム戦の直前。四カドから飛び出した西野貴志さんが紅属性のマブイを猛らせ、内側のベテラン勢を一瞬で圧殺する圧倒的な強襲旋回を叩き出す。
「誠、見とけよ! これが泥水すすってきた『動』の極みや!!」
陽が落ち、紫紺に染まる夜の関門海峡。整備室では黒田師匠が、排気音に耳を澄ませていた。
「速水。量で勝てないなら、質とボルト一本の血管のタイミングで勝つんや。スーの体温を回路の核にしろ。あの犬は、お前のマブイが尖りすぎた時の精神の錨や。そいつを今日はレース中も繋いどけ。お前の一千を、あの怪物の真空の隙間に――楔として叩き込め!」
師匠がスーの体温を「回路の核」として正式に認めた。それが、俺を完全に落ち着かせた。
俺はシールドをカチリと下げ、三十九号機の硬いシートへ深く沈んだ。インカムからスーのフガフガとした呼吸が届く。この温もりを、核に据えて走る。脳のニューロンが、極限まで研ぎ澄まされていく。
「スー、行こう。俺たちの本当の航路を、この世界に見せてやるんだ」
一コースの一号艇には大内胤賢。凍てつく波動が夜空へ不気味に立ち昇る。あの男の視野の中に、俺はまだ射程外として処理されているはずだ。それでいい。今夜、その計算を粉砕する。
大時計の針が動き出す。十二秒前。数万人の歓声が完全に消えた。聞こえるのはスーの呼吸音、六〇〇馬力の爆音、そして大時計の「カチ……カチ……」という冷たい刻み音だけだ。
(大内の氷極凍結旋回は水面の分子を静止させて流体抵抗をマイナスにする。なら俺は、その完璧な静寂の航跡に、右舷エッジを完璧な「楔」としてブチ込む!)
「――大時計、始動ッッ!!」
白針がゼロへと突き刺さった。俺はスロットルを床まで握り込み、三十九号機の血管のすべてを爆発的に起こした。
「――凝縮一閃……真空の楔ッッ!!!」
下関の紫紺の水面が、金属性の白熱の閃光と共に真っ二つに割れた。
大内の分子静止が支配する絶対零度の空間へ、俺のエッジが鋼の楔となって突き刺さる。物理法則が悲鳴を上げ、摩擦ゼロの氷極旋回に山口の一千の熱圧が混入した瞬間、大内の完璧な真空に、初めて亀裂が入った。
カウル越しに、大内の表情が一瞬だけ動くのが見えた気がした。「計算外」という言葉を初めて知った装置の顔だった。




