楔
二〇二九年二月二十五日。ボートレース下関。
昨日と同じ顔ぶれが、専用ピットに集まっていた。海野田さん、寺田親子、塩田さん。それぞれが一昨日より一段鋭い殺気を纏い、俺と三十九号機を取り囲んでいる。「血管の感覚」が定着したと思ったその翌日、先輩たちはその感覚を実戦でへし折りにきているのだ。
「お前のその金属性の意思を、クランクケースの奥まで血管のように叩き込めと、何度言えば分かる」
海野田さんが三十九号機を睨みつけた。俺は答えずにステアリングを握り、今日こそ先輩たちの包囲網を血管の感覚で切り裂いてみせると、奥歯を噛んだ。
だが、その張り詰めた空気が、一人の青年が現れた瞬間に凍りついた。
「……胤賢……!?」
海野田さんが狼狽え、黒田師匠が一歩前に出て俺を背中にかばった。
大内胤賢、二十二歳。コアマブイ十万。史上最年少でSGの玉座に君臨する、からくり競艇界の規格外の天才だ。彼がその場に立つだけで、真冬の下関ピットから熱量がすべて奪われ、整備室の窓ガラスにバリバリと霜の花が咲いた。
「黒田さん。あなたが育てているという『一千の奇跡』のデータを直接確認しに来ただけですよ」
大内は俺に視線を向けなかった。ただ冷淡に、機艇の列を通り過ぎる。俺の一千の金属性マブイが、十万という圧倒的な質量の前で、嵐の中のロウソクのように震えていた。
「俺の方程式の射程外だ。来月の公式戦で、数字を以て、あなたの指導が間違いだったことを証明してあげます」
大内は水面へ滑り出した。ただ極寒の流体密度を確かめるだけの、軽い旋回のはずだった。
第一マークを通過した瞬間、俺は何が起きたか一瞬理解できなかった。
音が消えた。
水飛沫が、なかった。摩擦の絶叫も、波紋すら、残っていなかった。
「……水面の分子運動が……止まっている」
瓜生が端末を握りしめる指をガタガタと震わせながら呟いた。
「大内の『氷極属性』が旋回半径内の流体抵抗係数をゼロどころか、マイナスへと強制的に書き換えた。通過した航跡に、絶対零度の冷気だけが留まっている」
完璧なる流体の真空。最年少SS・大内胤賢の神技――「氷極凍結旋回」。
大内は戻り、俺に一瞥もくれぬまま言い放った。
「低出力の欠陥品をどれだけ集めても、僕が辿り着いた神域の絶対速度には一歩も近づけませんよ」
大内は去った。静まり返ったピットの床に、俺はただ、震える右手を見つめたまま作業椅子へ腰を下ろした。自分たちが命を懸けて研ぎ澄ましてきた技術が、あの絶対零度の深淵の前では、ただの子供の火遊びに過ぎなかったのか。
スーが、そっと俺のブーツに温かい鼻先を寄せた。焦燥が、少しずつ冷たい冷静さへと変わっていく。そして、その静けさの中で、俺の頭の中で何かが繋がった。
(待てよ……。大内さんのあの旋回は、水面の抵抗をすべて「消し去る」。抵抗が消えるということは、物理演算の上では「加速の限界値」が消滅するということだ。なら……)
「もし摩擦がマイナスになるなら、その真空に俺の金属性の楔を叩き込んだ時、逆に真空が俺の加速を後押しするはずだ」
俺の瞳の中に、十万の絶望を焼き尽くす狂気の光が宿り始めた。
「……黒田師匠」
俺はゆっくりと顔を上げた。
「大内さんの旋回は、水面を凍結させることで抵抗をゼロにする。だったら俺は、その凍てついた真空に対して、俺の金属性の楔を叩き込む。奴が作った摩擦マイナスの真空を、俺の旋回の足場にしてやるんだ」
「ええ顔しとるな、誠」
黒田師匠がニヤリと口角を上げた。その目の奥に、ずっと待っていたという光があった。
「お前のその狂気、証明してみせろ」
瓜生が静かに端末の電算を起動した。俺の脳内を流れる、物理法則をハッキングする狂気的なシミュレーションを、無音の速度で補完し始める。言葉はなかった。それだけで十分だった。
関門海峡の夜空が、真冬の鋭い冷気の中で白く光り始める。
一千の凡人が、十万のSS怪物を、その絶対零度の真空ごと粉砕するための「摩擦の反逆」が、今、幕を開けた。




