第33話:吉備の鉄風、守屋グループの「静かなる結束」
世界遺産・厳島神社の「大鳥居」を望むボートレース宮島は、からくり競艇界において「最も神秘的な水面」と称される。瀬戸内海の穏やかな潮が流れ込むが、その実態はレーサー泣かせの難水面である。
最大の特徴は、潮の干満によって刻々と変化する「水面の高さ」と「風の抜け」にある。満潮時には大鳥居の足元まで水が満ち、水面はうねりを伴ってボートを激しく跳ね上げる。一方、干潮時には穏やかな平水面となるが、宮島特有の山風「弥山おろし」がスリット付近で不規則に吹き荒れ、大時計とのタイミングを絶望的に狂わせる。
さらに、この地には「神の気」が宿ると信じられている。強力なマブイを搭載した機体が宮島の聖域に立ち入ると、時として計器が狂い、マブイの出力が不安定になる現象が報告されているのだ。ここでは、最新のテクノロジー以上に、水面への敬意と、自然と一体化する「無」の境地が勝利の鍵を握るのである。
2028年8月20日。山口・下関で「衆望万魂祭」の熱戦が繰り広げられているその頃、関門海峡から東へ数百キロ離れたボートレース児島(岡山)の選手宿舎ロビーには、異様な緊張感が漂っていた。山口の「おじさん連中」が誠を茶化して盛り上がっている放送事故寸前のインタビューを裏で聴きながら、岡山の「守屋グループ」の面々もまた、手に汗握ってモニターを注視していた。
グループの中心にいるのは、誠と同い年の天才・守屋あおい。その周囲には、岡山支部の誇る最強の家族と仲間たちが勢揃いしている。
「……誠のやつ、また無茶しやがって。マブイ1,000であのスタートタイミングは、神経が焼き切れるぞ」
苦い顔で呟くのは、あおいの兄、守屋司(24歳)。彼はコア1、外付け1という、現代の基準ではレーサー不適格とも言える「究極の持たざる者」である。しかし、マブイという恩寵を持たない分、彼は己の五感を研ぎ澄まし、マブイに頼らない絶対的な計時能力を極めた。司にとって、誠の1,000を極限まで絞り出す走りが、いかに危ういバランスの上に成り立っているかは、誰よりも理解できていた。
「あおい、そんなに画面に近づいたらマブイが酔うわよ。……でも、あの39号機の吸気音、篠田裕美さんとこの『色』が完全に出てきたわね」
あおいの姉、守屋果穂(27歳)が感心したように言う。精密なエンジン巧者として知られる彼女は、誠の機体の劇的な変化を、スピーカー越しに聴き取れるわずかな吸気音だけで察知していた。
「いいじゃない。あおいちゃん、誠くんがあの西野さんと大峰さんに捕まってるの見て、さっきから拳がプルプルしてるわよ?」
果穂の同期、住友香織(27歳)がニヤニヤしながらあおいを小突く。
「……お兄ちゃん、お姉ちゃん。あいつ、バカだから。あのおじさん達に何言われても、真に受けて変なことしちゃうんだから」
あおいの声は震えていた。大峰や西野が誠に「俺のマブイを預ける」だの「動の極み」だのと、耳触りの良いアドバイスを送るたびに、ロビーの空気は熱を帯びていく。
「あおい、準備しておけ。準優勝戦が終わったら、児島から山口に『喝』のエネルギーを送るぞ。今の誠には、お前の『精密な風』が必要になる」
司が静かに、しかし力強くあおいの背中を押した。守屋グループは、圧倒的な出力よりも効率と精度を重んじる。山口の荒々しい熱狂の中に、岡山の冷静な技術を注ぎ込む。それが彼女なりの「意地」であった。
一方、舞台は下関。予選を突破した誠は、優勝戦への切符を懸けた準優勝戦のピットにいた。対峙するのは、昨日まで誠を茶化していた西野貴志、そして大分支部の怪物・大峰幸太郎である。
「誠、ええか。ここから先は遊びはおしまい。1,000のマブイ、全部俺たちの引き波に喰わせてやるからな」
西野の目は、昨日のエンターテイナーのそれではない。獲物を狙う猟犬の目であった。
大時計が始動する。スリット通過。西野が外から凄まじい「動」のプレッシャーで絞り込んでくる。大峰が内から「鳳凰」の羽ばたきのような波を立て、誠の進路を封じる。
(……聴こえる。果穂さんが言ってた吸気音。司さんが言ってた時計の鼓動。そして……あおいの怒ってる顔!)
誠は1,000のマブイを機体のキャブレター一点ではなく、自分自身の鼓動に同化させた。
「スカイ・ハイ……じゃない。……『極低空、一点切断』!!」
誠はチルト3.5をあえて捨て、機体を水面ギリギリまで沈め込んだ。西野の「動」の圧力を水面下の反動として受け流す。大峰が作った鳳凰の波の継ぎ目――瓜生がかつて見せた「凪」のラインに、誠は自身の全マブイを突き立てた。
「入ったぁぁ!! 誠、西野と大峰を同時に引き裂いた!!」
実況が絶叫する。西野の横を通り過ぎる瞬間、誠は確かに見た。西野がヘルメットの中で、満足そうに「行け」と口を動かしたのを。
レース終了後、1着で優勝戦進出を決めた誠のもとに、一通の緊急暗号通信が届く。差出人は「守屋グループ」であった。
添付されていたのは、岡山の精密な風洞実験データに基づいたプロペラの設計図。そして一言、あおいのメッセージが添えられていた。
『あんたの39号機、吸気がガサガサなの。このペラに叩き直して。負けたら、児島まで引きずり回して海に沈めるから』
「あはは……あおいらしいや」
誠は笑った。だが、その瞳には熱いものが込み上げていた。山口の「黒田グループ」「平野グループ」「篠田チーム」。大分の「大峰グループ」。福岡の「西野」。そして、岡山の「守屋グループ」。かつて持たざる者として孤独だった少年の背中には、今や西日本すべての「意地」が翼となって備わっていた。
一方、1号艇で悠々と優勝戦を待つ大内胤賢は、この熱狂を冷めた目で見下ろしていた。
「……寄せ集めのマブイで、何ができるというのですか。僕の『虚無』が、すべてを平等に消し去ってあげますよ」
下関競艇場、夜の静寂。誠はピットの端で、シロと一緒に月から降り注ぐ光を浴びていた。
「シロ。明日、俺は飛ぶよ。でも、今までとは違う。皆の想いを、全部この1,000のマブイに乗せて、大内さんにぶつけるんだ」
シロの身体から、かつてないほど清浄な波動が放たれる。それは、明日の優勝戦で起こる奇跡の予兆であった。
「あんたが一人でカッコつけるから、私も追いかけてきちゃったじゃん。……誠、ワンツーで決めるよ」
最強の6人が、下関の水面で歴史を作る。




