第32話:衆望万魂祭ドリーム戦、山口三つ巴の包囲陣
本州の最西端に位置する下関競艇場は、瀬戸内海と日本海が交差する関門海峡のほど近くに鎮座する。この水面の最大の特徴は、海水を利用した「干満差」と、カクテル光線に照らされた「静寂」にある。
潮の満ち引きによって水面の高さが常に変化し、満潮時には複雑なうねりが生じて機体の安定を奪う。逆に干潮時には穏やかな鏡面へと姿を変え、純粋なスピード勝負を可能にする。特に夜間のレースでは、暗闇の中に浮かび上がる大時計と、水面に反射するカクテル光線が、レーサーの距離感を狂わせる幻想的な罠となる。
さらに、下関特有の「横風」は、チルトを跳ね上げた機体にとって致命的な揚力の乱れを生む。この気まぐれな風と潮を読み切った者だけが、関門の荒ぶる水面を制することができるのだ。
2028年8月15日。ボートレース下関、12Rドリーム戦。
ついに迎えたメインイベント。数万の観客が放つマブイが下関の夜空を黄金色に染め上げる中、カクテル光線に照らされた水面には、山口支部の誇る「三つの流儀」が揃い踏みした。
誠を支える全てのグループの力が、ここに結集していた。
* 1コース:大内 胤賢(福岡)
圧倒的SS。漆黒の機体「虚無」から漏れ出る10万マブイが、物理的な重圧となって水面を鎮圧している。
* 2コース:黒田 瑛人(山口)
誠の師匠。「黒田グループ」の長。愛機「白鯨」から放たれる威圧感は、大内の絶対領域に真っ向から亀裂を入れる。
* 3コース:速水 誠(山口)
「篠田チーム」仕込みの超高速直線を携えた39号機。
* 4コース:瓜生 俊樹(山口)
「平野グループ」伝統のマブイ0による隠密走法。
「大時計、始動!」
針が頂点を指した瞬間、6艇の咆哮が下関の夜に響き渡った。
2.山口三連星の波状攻撃
スリット通過。1号艇の大内がSSの貫禄を見せ、最短ラインを確保して逃げ態勢に入る。10万マブイによる「空間制圧」――本来なら、後続の機体はその余波だけで弾き飛ばされるはずであった。
しかし、大内の懐に真っ先に影のように飛び込んだのは、瓜生俊樹であった。
平野一貴から受け継いだ「マブイ0」の極意。大内が展開する高密度のマブイ探知網を、瓜生の機体は「存在しない幽霊」としてすり抜ける。
「何っ、捉えきれない!? マブイの反応がないだと……!」
大内が一瞬、足元に忍び寄った瓜生の「無」に意識を奪われた。その刹那、上空から爆音が降り注ぐ。
外側から篠田裕美直伝の爆風直線を乗せた誠の39号機が、チルト3.5で天を衝いた。
「シロ、行くよ! 皆の想いを力に変えて……!」
誠の腕の中で、シロが天に向かって遠吠えをする。その瞬間、会場に集まった100万ファンの熱狂が、シロの浄化能力によって不純物を取り除かれた純粋な光の粒子へと変換された。誠の1,000のマブイと融合し、39号機の両翼に黄金の翼を形成する。
大内の頭上を越える究極の「スカイ・ハイ」。
内側から大内の視界と感覚を奪う、瓜生の「消失」。
そして背後で逃げ場を塞ぎ、プレッシャーをかけ続ける黒田の「白鯨」。
山口支部の「黒田グループ」「平野グループ」「篠田チーム」――かつては反目し合い、切磋琢磨してきた彼らの意地が、誠という触媒を通じて一つになった。完璧だったはずの大内の旋回が、山口三連星による波状攻撃によってわずかに、しかし決定的に膨らんだ。その隙間を、誠の黄金の翼が切り裂いていく。
「届いた……SSに、届いたぞ!!」
実況の叫びが夜の海にこだました。
2028年8月18日。衆望万魂祭予選4日目。
初日のドリーム戦で大内を撃破した興奮が冷めやらぬ中、ピットのモニターに表示されたタイム結果が、全レーサーに衝撃を与えた。
「誠先輩、お疲れ様です。……でも、タイムは私の勝ちですね」
涼しい顔で誠にタブレットを突きつけたのは、黒田グループの最年少、寺田詩であった。表示されたタイムは、誠がドリーム戦の全力疾走で出した記録を、さらにコンマ05秒も上回る驚愕の数値であった。
「誠さん! 浮かれてる暇ないですよ。あたしも詩に負けてらんないから、全開で行っちゃいました!」
隣で胸を張るのは、篠田チームの原田もも。黒田グループの精密旋回を継承した詩と、篠田チームの直線性能を体現するもも。誠の活躍に火をつけられた女子高生コンビが、一般戦という気負いのない舞台で、最高速を塗り替えていたのである。
「うっわ、誠師匠! JK二人にタイムで捲られるとか、マジでダサくない?」
野田あかりまでもが触発され、山口支部のピットは次世代の覇権争いで異様な熱気に包まれた。誠は苦笑いしながらも、後輩たちの底知れぬポテンシャルに、山口の明るい未来を確信していた。
同日午後、衆望万魂祭の舞台は一時、下関を離れ、特設ステージである広島・宮島へ。
世界遺産・厳島神社の鳥居を望むこの水面は、瓜生俊樹にとって、すべてを喪い、そして命を拾った因縁の地であった。大内胤賢は、下関での敗北によって自身の「完璧」に傷がついたことに激しい苛立ちを覚えていた。彼は周囲のマブイを強引に吸い上げ、相手の出力を枯渇させる禁断の構え「魂剥ぎ(ソウル・ドレイン)」を発動。漆黒の殺気を撒き散らしながら水面に入った。
「……目障りだ。マブイのないゴミは、この水面ごと消えてしまえ」
大内の機体が放つ黒い波動が、宮島の海を侵食しようとしたその時。不自然なほどに、海が鏡のような静寂に包まれた。
「……大内。ここはお前の場所じゃない。この水面は、覚えているんだ。父さんたちの、悔しさを」
瓜生の機体がスリットを抜ける。通常、大内の「魂剥ぎ」を受ければ、どんな強力な機体も出力を奪われ停止する。しかし、元からマブイが「0」の瓜生には、奪われるべきものが何一つ存在しない。
それどころか、宮島の神聖な水辺に蓄積された太古からの気配が、瓜生の「空白」という器に呼応するように、白く淡い光を放ち始めた。
「あれは……マブイじゃない! 厳島の『気』そのものが、瓜生を運んでいるのか!?」
実況が絶叫する。誠もまた、上空からその光景を見守っていた。
瓜生は大内の懐を、まるで水鳥が波紋すら立てずに滑るように、音もなく抜き去った。かつて自分の家族を呑み込んだ「魂の渦」を、瓜生は自らの「無」で鎮めてみせたのだ。宮島の大鳥居を背に、瓜生の機体が光の筋となって走り抜ける。「持たざる者」たちが、今、神話の領域へと足を踏み入れようとしていた。




