第3話:卒業試験「不死鳥の背中」
2027年3月。
琵琶湖の朝は、この1年の教習期間中で最も過酷な「比叡おろし」が吹き荒れていた。比叡山の山嶺から駆け下りる冷気は、湖面に鋭い三角波を立て、霧を切り裂くカミソリのように教習生たちの肌を刺す。
卒業試験。
1年前、数千人の志願者のうち、この鉄門をくぐることを許されたのはわずか数十名。そして今、卒業の証であるプロライセンスをその手に掴みかけているのは、過酷な脱落試験を生き抜いたわずか5名にまで絞られていた。
「いいか、貴様ら。条件は平等だ」
ピットに立つ校長・上田通彦の声は、狂風の唸りさえもねじ伏せる重圧を孕んでいた。彼の傍らには、漆黒の塗装に純金のラインが走る最新鋭機――不死鳥モデル「フェニックス・零」が鎮座している。それは、かつて彼が異世界の戦場を駆け抜け、1080勝という不滅の記録を打ち立てた伝説の機体の系譜を継ぐものだ。
「コースは1800メートルフルコース。本校最大の難関だ」
上田校長の超絶的なマブイコントロールがあれば、第1マーク(第1旋回点)に到達する頃には時速100キロを超え、マブイの衝撃波だけで先行する他艇を転覆させるだろう。
「私が1マークを回るまでに、一人でも前にいれば全員合格だ。だが、私に飲み込まれた者は……その場でプロへの道は閉ざされる。即刻、退所届を書いてもらう」
最後の整備時間。誠は39号機の心臓部を見つめていた。一年前は「死に体」と呼ばれたボロエンジンも、今や誠の魂の一部となっていた。
「誠……正気か? 本当にその設定でいくのか」
隣のピットで調整を行っていた瓜生俊樹が、誠の機体の設定をモニター越しに見て、珍しく驚愕の声を上げた。誠が選択したのは、これまで誰も卒業試験で選んだことのない極端なセッティング――「チルト3.0」。
「ああ。上田校長の60メートルダッシュは、理屈を超えた暴力だ。0.5の精密な旋回じゃ、あの加速に飲み込まれる。ならば、チルトを極限まで上げて、直線での伸びで勝負するしかない」
チルト角度を上げることは、機体のノーズを極限まで跳ね上げ、水面との接地面積を減らすことを意味する。最高速度(伸び)は飛躍的に上がるが、旋回は不可能に近いほど暴れ馬となり、わずかな風で機体は空へ舞い、空中分解する危険がある。
「瓜生、お前は機体の重さを消すことだけを考えろ。お前が道を作れば、俺が突き抜ける」
コアマブイ0の瓜生は、感情の読めない瞳をわずかに細めた。彼はこの1年、マブイがない代わりに、周囲のマブイの流れを「静止」させ、空気抵抗を物理的に排除する計算技術を磨き上げてきたのだ。
「了解した。……僕が真空を作る。君がそこを焼き切ればいい」
「大時計、始動!」
管制塔からの号令とともに、巨大な針が動き出す。12秒、10秒、5秒……。琵琶湖の空気が、膨大なマブイの集積によってプラズマ化し、火花を散らす。
「ハアアアアッ!」
山崎征也がコアマブイ10000を全開にする。守屋あおいが氷のような冷静さでタイミングを測り、實森ゆえが負けん気をマブイに変えて機体を震わせる。
そして、0秒。
琵琶湖の水面が、物理的な爆発を起こした。
0メートルラインから5隻の艇が飛び出す。しかし、それらすべてを背後から襲う「暴力的な風」が、瞬時に飲み込んでいった。上田通彦、60メートルダッシュ。縫合痕のある指でハンドルを固定した上田は、マブイを糸のように細く展開し、機体全体を数センチだけ浮かせた。水面抵抗をゼロにする「ゴースト・スライド」。上田の機体は、音速に近い加速で1マークへ向かって突き進む。
「……甘いな、雛ども。実力差という絶望を知れ」
上田の機体から放たれる圧倒的なマブイ圧。先行する山崎たちが、その圧力の余波だけで機体を揺さぶられ、旋回軌道が大きく外側に膨らんでいく。その時だった。
「今だ……開け、道ッ!!」
誠の叫びとともに、39号機が火を噴いた。
誠は1000しかない自らのコアマブイを、機体の安定には一切回さず、後方の噴射口一点に、針の穴を通すような精密さで集中させた。
チルト3.0によって跳ね上がった機首が、比叡おろしの風を掴み、機体を弾丸のように空へと射出する。
「なっ……速水!」
山崎が驚愕して空を見上げる。空中。重力から解き放たれた誠の視界には、瓜生が作った「道」が見えていた。瓜生は0メートルから先行しながら、あえてマブイを後方に乱射し、空気の渦を打ち消す「マブイの真空帯」を形成していた。
着水。衝撃で誠の腕の骨が軋む。だが、誠は構わずアクセルを床まで踏み抜いた。瓜生が開いた真空の穴に、チルト3.0の暴力的な伸びが突き刺さる。
第1ターンマーク。上田校長の漆黒の機体が、内側を完璧な軌道で制圧しようとした、まさにその刹那。大外。水面を走るのではなく、切り裂きながら突き進む銀色の影が、上田の視界に割り込んできた。
誠の39号機だ。顔の皮が剥がれるような加速G。脳を直接焼くような金属耳鳴り。誠は、死線の上で踊っていた。わずか1000のマブイ。だが、その1000は今、39号機の歪んだ軸や錆びたボルトのすべてと完全に「融解」していた。
「……っ!!」
並走。わずか数メートルの距離。誠は見た。極限の速度の中、隣を走る上田校長の、あの傷だらけの顔が。
わずかに、本当にわずかに、口角を上げたのを。
「……行けえええええええッ!!」
誠は魂を燃やし尽くすように、レバーを引き抜いた。
試験終了を告げるブザーが、静まり返った湖面に響いた。
判定。誠、山崎、守屋、瓜生、そして實森。5名全員が、コンマ数秒という微差で、上田校長よりも先に1マークを通過していた。
ピットに戻った誠は、機体から降りるなり、その場に膝をついた。マブイを使い果たした体は鉛のように重い。だが、その視界はこれまでにないほど澄み渡っていた。
重厚な足音とともに、上田校長が歩み寄ってくる。彼はヘルメットを脱ぎ、潮風に吹かれたまま、誠の前に立った。
「合格だ」
その一言に、張り詰めていた空気が一気に解けた。實森が泣き出し、山崎が悔しそうに天を仰ぐ。
「速水。お前のチルト3.0は、ただの暴走ではない。瓜生が作ったわずかな隙間、マブイの潮流を見極めた、精密な『暴走』だった。……1年前、ゴミ溜めのような数値だと言われた男たちが、今日、私を抜いた」
上田は、縫合痕のある大きな手で、誠と瓜生の肩を強く叩いた。
「明日からは、貴様らは一人のプロだ。だが忘れるな。今日私を抜けたのは、私が『教官』として、お前たちの限界を引き出すために走ったからだ。プロの舞台で待っている『怪物』たちは、私の比ではない。やつらは、お前たちが輝こうとした瞬間に、その火を消しに来る。……だが、それでも突き進め。からくりに、魂を吹き込み続けろ」
誠の手には、新品の輝きを放つプロライセンスが握られていた。
「……校長、お世話になりました」
誠が深く頭を下げる。そして、彼は足元に佇む相棒――39号機の操作パネルを叩いた。卒業時に特別に修復され、もはや「死に体」の面影などないほど磨き上げられたエンジン。誠がマブイを逆転させて念じると、特殊素材で作られた機体はみるみるうちに凝縮され、手のひらに収まるミニチュアサイズへと姿を変えた。
誠はそれを、大切な宝物のように懐にしまい込む。
琵琶湖を後にする彼らの背中を、夕暮れの陽光が照らしていた。滋賀・大宮機艇教習所。そこは、少年たちが「部品」から「英雄」へと変わる場所。
速水誠。1000のマブイしか持たざる者の物語は、今、本物の戦場へとステージを移す。
「行こうぜ、瓜生。次は、本物の賞金王だ」
「……ああ。計算通りだ」
二人の影が、琵琶湖の霧の中に消えていった。




