第29話:関門の重圧、黒田グループの「鉄の掟」
からくり競艇の世界において、レーサーは孤独な勝負師ではない。彼らは「ペラグループ」と呼ばれる、師弟関係や地域性を軸とした運命共同体に属している。
本来の役割は、ボートの心臓部であるプロペラの叩き方や、エンジンの整備情報を共有することにある。しかし、マブイが実戦投入された現代においては、その意味合いはより深遠なものへと進化した。ペラグループは、いわば「マブイの系譜」である。
先代から受け継がれた精神、戦術、そして機体制御の極意が、日々の整備と練習を通じて後輩へと継承されていく。一人の天才の「ひらめき」を、グループ全員の「経験」で補完し、研ぎ澄ますことで、個人の限界を超えた戦力が生まれるのだ。
速水誠が所属するのは、山口支部の精神的支柱・黒田瑛人が率いる「黒田グループ」。ここには、華々しい戦績以上に「負けないこと」を至上命題とする、泥臭くも強靭な職人たちが集っていた。
2028年7月25日。梅雨明けを告げる強烈な日差しが、下関競艇場の水面を白く焼き尽くしている。
SG『マブイ開花賞』での相棒・瓜生俊樹の戴冠、そして自身の飛躍。山口支部がかつてない活気に沸き立つ中、誠は黒田グループの専用ピットへと呼び出されていた。そこに漂うのは、大峰グループの若手たちが放っていた熱気とは質の異なる、熟練の職人たちが醸し出す静かなる威圧感であった。
「……誠、またエンジンを甘やかしてんな。ピストンの機嫌を伺う前に、お前の意志を叩き込めと言ったはずだ」
声をかけたのは、海野田八雲、45歳。どんなハズレエンジンを引いても、その「剛腕」による力技で機体をねじ伏せる男。黒田の右腕として、山口の荒波を支えてきた重鎮である。
「誠くん、そんなんじゃ詩に負けちゃうよ? 若さだけで走れるのは、ここから先は通用しないんだから」
温和な笑顔でスパナを回すのは、寺田明、47歳。家族全員がプロレーサーという競艇一族の長であり、一切の隙を見せない「精密機械」だ。その隣では、娘であり誠の最強の後輩候補、寺田詩が不敵に笑う。
「誠先輩、今日も飛ぶんですか? 私、最短距離を差しますから、空中で迷子にならないでくださいね」
さらに、ハンデラインの魔術師・塩田まなみが鋭い視線を送る。
「誠くん、30mラインからの景色、教えてあげようか? 差しはスピードじゃない、『タイミング』よ」
黒田瑛人がメンバーを前に、誠を指差した。「今日はお前に、グループ全員で稽古をつける。一人ずつ、お前の『逃げ場』を奪っていくからな。シロに頼るな、お前自身のマブイで答えを出せ」
「大時計、始動!」
模擬レースが開始された瞬間、誠は血の気が引くのを感じた。第1マーク、塩田まなみが正確無比な「針の穴を通す差し」を繰り出す。誠がチルト3.5で捲りに入る進路を、まるで予見していたかのようにミリ単位で潰しに来たのだ。
「えっ!? なんでそこに……!」
バックストレッチ、態勢を立て直そうとする誠の横に、海野田八雲が圧倒的なトルクで並びかける。巨大な引き波が39号機のバランスを暴力的に揺さぶり、浮き上がろうとする機体を水面へと叩きつける。さらに寺田明・詩親子が、一つの生き物のような連携で誠の左右を固め、進路を完全に塞いだ。
「くっ……逃げ場がない! 全員が、俺の『次の一手』を読んでるみたいだ!」
誠は、坂田から教わった「一点集中」も、大峰グループとの特訓も通用しない、圧倒的な経験の壁に直面していた。彼らはマブイの量で圧倒するのではない。誠の1,000のマブイがどこに集中しているかを、エンジンの鼓動と水面の揺らぎだけで読み取り、先回りして「詰将棋」のように追い詰めてくるのだ。
「誠、お前のマブイはまだ『意志』に過ぎん! それを『事実』に変えろ!」
大外から黒田瑛人の「白鯨」が、誠の頭上をかすめるような爆速旋回で通り過ぎる。誠は、自分の無力さを痛感しながらも、同時に震えるような興奮を覚えていた。これが、山口の、プロの、本当の深淵であった。
2028年8月1日。関門海峡を越えた先、福岡競艇場の夜のピット裏には、対照的な冷たい静寂が漂っていた。
「えらい冷え込むと思ったら、SS様のお帰りか」
闇の中から声をかけたのは、福岡支部の顔役、西野貴志、36歳。軽妙な語り口でいつも笑っているが、その瞳は一切笑っていない。彼は、山口から戻ってきた若き怪物、大内胤賢が放つ異常なマブイの波動を警戒していた。
大内胤賢。コア50,000、外付け50,000、計10万のマブイを持つ、現在の競艇界で最も「神」に近いと言われる男。
「西野さん。山口の『1,000のマブイ』……期待外れでしたよ。誠も瓜生も、所詮は低出力の欠陥品だ」
大内は感情を排した声で答える。彼の周囲だけ、空気が絶対零度まで凍りついているかのようだ。
「胤賢、お前は相変わらずやな。その10万の『完璧』を維持するために、心までマブイに変えちまったんか?」
「……勝負に心など不要です。僕は最短のラインを、最速で通るだけの装置であればいい」
西野は大内の横を通り過ぎる際、その耳元で低く、重みのある声で呟いた。
「お前はインから逃げるだけの『最強』かもしれん。だが、あいつらは違うぞ。速水誠も、瓜生も……地獄の底を這いずって、無いところから道を作る連中や。お前が一度でも躓いた時、その完璧なマブイの隙間に、あいつらの泥臭い一撃が突き刺さるぞ」
大内は一瞬だけ足を止めたが、振り返ることはなかった。
「……隙など、作りません。僕は、SSですから」
大内が冷徹な足取りで去った後、西野は一人、スマホで下関の練習風景をチェックしていた。そこには、黒田グループの猛者たちに揉まれ、ボロボロになりながらも、シロを抱えて笑っている誠の姿があった。
「……ま、おもろいことになってきたわ。瑛人さんに裕美ちゃん、さらにあの大峰まで噛んどる。胤賢、お前がいつまでその『冷たい椅子』に座ってられるか、俺も楽しみやで」
西野のマブイが、わずかに紅く燃え上がった。彼は大内の最大のライバルであり、若きSSの横暴を黙って見過ごすつもりは微塵もなかったのである。
下関のピットに戻った誠は、疲れ果てて愛機39号機の横に座り込んでいた。その腕には、シロが静かに寄り添っている。
「シロ……俺、今まで自分が一番苦労してると思ってた。でも、海野田さんや寺田さんたちは、俺の何倍も、何十年も、あの厳しい水面で『負けない戦い』をしてきたんだな」
シロは、誠の1,000のマブイが、単なるエネルギーではなく「誇り」を帯び始めたのを感じ取っていた。
誠は決意した。ただ飛ぶのではない。黒田グループの猛者たちが作る逃げ場のない包囲網の真ん中に、自ら飛び込み、そこから道を切り裂くのだ。
「見ててくれ、師匠。俺の39号機には、あんたたちの血も通わせる!」
山口の空に、新しい夜明けが近づいていた。




