第27話:豊後と安芸の鉄壁、そして「1000」の活路
2028年7月12日。下関競艇場のカクテル光線が、瀬戸内海のさざ波を宝石のように煌めかせている。SG『マブイ開花賞』、最終12レース。全国2,000人のレーサーの頂点を決める優勝戦には、競艇の歴史を塗り替える「三世代の情念」が渦巻いていた。
1号艇、坂田結衣。彼女が機体に乗り込んだ瞬間に放たれた「浪速の覇気」は、物理的な圧力となって周囲の酸素を希薄にさせた。かつてSGを総なめにした伝説の女傑が、B1から這い上がり、再び頂点に手をかけようとしている。その凄まじいプレッシャーに、2号艇の速水誠は思わず息を呑んだ。
しかし、その外側から、さらに異質な圧力が誠を包囲する。
「およよ、坂田さんがおるなら、俺たちも遊ばせてもらわんとなぁ」
(※「およよ」は大峰の口癖)
大峰幸太郎、大分支部の怪物だ。不敵な笑みを浮かべ、あえて誠の至近距離まで機体を寄せる。
「速水、瓜生。お前たちの勢いは認める。だが、ここから先は『大人の時間』だ。若さが通用するほど、この海は甘くないぞ」
広島の帝王・堀尾大輔が呼応する。本来、支部もスタイルも違う二人の連携は異例であるが、坂田の「差し」と誠の「爆発力」を同時に封じるため、百戦錬磨のベテラン二人は暗黙の了解で「即席・巨大防波堤」を形成した。山口コンビを、経験という名の壁で圧殺しようというのである。
「大時計、始動!」
12秒計の針が頂点を指した。スタートと同時に、大峰と堀尾が完璧なコンビネーションで内側へ絞り込んでくる。大峰の華麗な旋回マブイが誠の視界を眩ませ、堀尾の55,000マブイによる「城門」の圧力が誠の退路を断つ。二人のベテランが放つマブイが合わさり、誠と瓜生の「山口ライン」を外側から完全に包囲した。
「くっ、大峰さんの引き波と、堀尾さんの圧力が重なって……壁に押しつぶされる!」
誠は坂田の教え通り、1,000のマブイを右舷エッジに一点集中させて突破を図る。しかし、二人のベテランが作る複合波は、1,000のマブイでは弾き飛ばせないほどの質量を持っていた。
その絶望的な包囲網の中で、瓜生俊樹の声が無線から静かに響いた。
「……誠、焦るな。大峰さんが右側、堀尾さんが左側の気流を支配している。だが、二人の強すぎるマブイが正面衝突している中央に、わずかコンマ数秒、デッドスポット(マブイの渦)ができる」
マブイを持たない瓜生だからこそ、二人の巨大な圧力の「継ぎ目」を見抜くことができた。それは、爆風と爆風が打ち消し合う、一瞬の真空地帯だ。
「誠、飛べ。一点凝縮を解いて、エネルギーを四方に散らせ。お前のチルト3.5なら、あの渦を『上昇気流』に変えられるはずだ」
「……了解! 俊樹、あとは任せた!」
誠は右舷への集中を解除し、1,000のマブイを全方位へ爆発的に開放した。坂田に教わった凝縮をあえて捨てる、逆転の発想である。大峰と堀尾の衝突エネルギーを、自機をさらに高く押し上げるための揚力へと強引に変換した。
ドォォォンッ!!
大峰と堀尾が作った鉄壁の頭上。山口の39号機が、下関の月光を背に、かつてない高度で舞い上がる。二人のベテランを飛び越えた誠の視線の先には、最内で虎視眈々と「極限の差し」を狙う坂田結衣の姿が捉えられていた。
最終ターンマーク。下関の空に舞った誠の39号機は、もはやボートではなく、獲物を狙う鷹であった。大峰と堀尾を飛び越し、誠は空中で姿勢を制御する。
「今だ……スカイ・ハイ、着水!!」
誠は坂田の返し差しを警戒し、着水の瞬間に再びマブイを一点集中させ、水面を掴む。坂田もまた、誠の着水を完璧に読み、カウンターの準備を整えていた。空の誠と、水の坂田。下関に集った数万人の観衆が、この二人の一騎打ちで決着がつくと信じて疑わなかった。
しかし、その時。二人のマブイが激突し、爆発的な火花を散らした背後で、全ての気配が消えたポイントがあった。
瓜生俊樹である。彼は誠が空中へ舞い上がり、ベテラン勢がそれを追って生じたマブイの狂いによる「波の凪」を、誰よりも早く、そして「無」のままに見抜いていた。
「……誠、坂田さん。悪いが、勝利は貰っていく」
瓜生はブレーキを一切かけず、全速力のまま、二人が作った巨大な引き波の「裏側」をすり抜けた。マブイ0。ゆえに、相手の妨害マブイに機体を弾かれることがない。物理法則の隙間を縫う、幽霊のような旋回であった。誠と坂田が互いの挙動を読み合い、コンマ数秒の膠着状態に陥ったその刹那。瓜生の2号艇が音もなく、しかし電光石火の速さで二人の内側を突き抜けた。
「なっ……!? 俊樹!!」
「うそやろ!? 影も形もなかったのに!」
誠と坂田が驚愕した時には、瓜生の艇はすでにバックストレッチで3艇身以上の差をつけ、独走態勢に入っていた。
レース結果:1着 瓜生俊樹、2着 坂田結衣、3着 速水誠。
山口支部の持たざるコンビが、SGという最高峰の舞台で、ベテラン勢を相手に1着・3着フィニッシュを成し遂げた。マブイ0のレーサーがSGを制するという、競艇史始まって以来の奇跡に、下関競艇場は割れんばかりの歓声に包まれた。
ピットに戻った瓜生は、ヘルメットを脱いでもいつものポーカーフェイスを崩さない。
「……作戦通りだ、誠。お前が派手に目立ってくれたおかげで、俺の『無』が完成した。最高の『道』を見せてくれてありがとう」
悔しさと驚きで呆然とする誠の頭を、瓜生は不器用な仕草で小突いた。誠はやがて苦笑し、熱い涙を拭った。
その光景を見て、坂田結衣は豪快に笑い飛ばした。
「ハハハ! 差しを教えた弟子の相棒に、もっとエグい差しを喰らうとはな! 私の負けや、潔く認めたる!」
坂田は二人の肩を強く抱き寄せた。「でもな、次は負けへんで。あんたらの『空』と『無』、次は私が飲み込んでやるからな!」
下関の夜。誠と瓜生、二人の若武者の首には、SG覇者の証である黄金のメダルが輝いていた。足元ではシロが、誇らしげに月を見上げて遠吠えをした。
山口の「持たざる者」たちの伝説は、今、ここから世界へと加速していく。関門海峡を抜ける風は、彼らの新しい門出を祝うように、力強く吹き抜けていた。




