世界で最も強固な牙
二〇二八年、十二月。
ボートレース住之江、SG「プレミアム賞金王決定戦」――最終優勝戦。
骨を凍らせるような乾いた寒風が吹きすさぶ中、カクテル光線がどす黒い水面を照らし出す。三世代の凄絶なプロの情念が渦巻く聖地に、今夜、すべての決着がつく。
三号艇の俺――速水誠の表情には、かつて恐怖から力に頼っていたあの少年の面影はもうどこにもなかった。凍てつくステアリングを握り、昨夜の整備室での女帝との誓いを、魂の祈りのように繰り返す。
(一点に、凝縮だ。右舷のハイドロステップ……凍てついた水面と激突するエッジの一線だけに、俺の一千しかない命の火のすべてを注ぎ込む!)
「――大時計、始動ッッ!!」
難波の夜空に大歓声が響き、巨大な白針が回る。スリットラインを全艇が通過したその瞬間、大峰さんの「最高峰旋回」の黄金光が俺の動体視力を狂わせ、堀尾さんの「剛性水壁」が退路を完全に遮断した。だが最下級B2から這い上がってきた俺は、外側へ一歩も逃げなかった。
(飛ばねえ……! 俺はもう、恐怖から力に頼って逃げたりしねえッッ!!)
「――凝縮……一閃ッッ!!!」
三十九号機の船底が、住之江の硬い反転波を抉る鋼の刃へと変形した。大峰さんと堀尾さんが作り出した複合反転流のコンクリート同然の壁へ、極限まで研ぎ澄まされたエッジの切っ先を真っ正面から突き刺す。波の抵抗を一刀両断に切り裂き、機体は堀尾さんの城門を力ずくで割って内部へと突入した。
第一マークの頂点。最下級B2の壮絶な突撃に、大峰さんと堀尾さんと坂田さんの全神経が一極集中した。それこそが、この世界の理をひっくり返す最大の死角を生み出す瞬間だった。
二人の怪物のマブイが激突して火花を散らした、その真後ろの空間。一切の音も、水飛沫も、すべての気配が、完全に消えた。
「……悪いが、この栄冠は、僕が貰い受けたよ、誠」
気配がないのに、そこにいた。一号艇・瓜生俊樹の白い艇が、二人が作った熱量の引き波の裏側の死角を、水すましのように素通りしてすり抜けていった。コアマブイ、完璧なるゼロ。計算をすべてドブに捨て、鉄の骨格のロジックと完璧に融け合った真のマブイゼロは、相手の放つどんな妨害波動にも弾かれることなく、物理流体の隙間だけを野生のカンで縫う「無響ステルス差し」だ。
俺と坂田さんが極限の膠着を起こしたその〇・〇二秒後、瓜生の白い艇が音もなく二人の最内を抉り抜いていた。
チェッカーフラッグ。一着、瓜生俊樹。二着、坂田結衣。三着、速水誠。
三年前、琵琶湖の決勝で水底へ沈めたあいつへ、今夜ようやく胸を張れる気がした。俺の走りが、持たざる者の走りが、世界のグランプリを動かした。
「……誠。お前が水面で誰よりも眩しく目立ってくれたおかげで、僕の無響ステルスが最高の形で完成した。ありがとう」
艇から降りた瓜生が、首に黄金のグランプリメダルを輝かせながら、不器用な仕草で俺のヘルメットをコツンと小突いた。俺は充実感と、相棒にあと一歩届かなかった本物のプロとしての悔しさの中で、溢れ出しそうになる熱い涙を拳で力強く拭った。
「へへ……お前が世界で一番前に行くなら、俺に文句はねえよ、俊樹。でもな、次こそは俺のこの一点凝縮の刃で、お前のステルスごと、世界のすべてを毟り取ってやるからな!」
坂田さんが、真冬の住之江の夜空へ向かって豪快に笑い飛ばした。
「ガハハ! 差しを教えた弟子の相棒に、さらにその内側からエグい無音のステルス差しを喰らうとはのう! 参ったわ、ワシの負けや、潔く認めたるわ!」
坂田さんは俺と瓜生二人の肩を、その分厚い掌で強く抱き寄せた。世界の理を壊した新兵たちへの、無上の敬意がそこにあった。
「でもな、次は一歩も負けへんで! あんたら山口の飛翔と隠密、次は大阪支部が丸ごと飲み込んでやるからな! 首を洗って待っとれ、若造ども!」
「望むところですよ、坂田さん。明奈さんもね」
瓜生が不敵に口角を上げた。夜霧の向こう、六着に沈んだ鎌倉明奈さんが、次なる決戦への飢餓感をその黒い瞳に宿し、冷徹に微笑んでいた。スタンドの遠くに、あおいの背中が見えた気がした。あいつも今夜、この水面で自分の答えを刻んだはずだ。
ピットの裏口では、菜奈がスーを小脇に強く抱きかかえたまま、ぐしゃぐしゃの泣き顔で俺たちの元へ駆け寄ってきた。
「誠……瓜生くん……! ほんまに、ほんまに最高の大バグ劇やったちや!!」
足元では、スーが力強く「ワン!」と、難波の夜空へ声を響かせた。その生身の小さな温もりが、俺の手のひらに残る重き無の残響を、心地よく人間の世界へと溶かしていく。
瓜生の首に輝く黄金のメダルがカクテル光線を受けて揺れる。俺はそのすぐ隣で、パチリと極上の過熱蒸気を吐き出している相棒・三十九号機のハルを、愛おしそうに強く叩いた。
「待ってろよ、三十九号。俺の一千の火が完全に消え去ったその瞬間にこそ、お前は世界で最も強固な牙に変わる。まだ終わらねえぞ」
ハイドロバルブが、シュウと小さく蒸気の息を吐いた。
持たざる者の、本当の戦いは、まだ続く。




