ハッキングの年輪
二〇二八年、十二月。
大阪・ボートレース住之江、SG「プレミアム賞金王決定戦」――準優勝戦。
明日の最終優勝戦へ勝ち進めるのは、各組の上位わずか二名のみという冷酷な死線だ。三号艇の俺――速水誠の表情には、かつてチルトの暴力に頼って空を飛んでいた、あの無鉄砲な少年の面影はもうどこにもなかった。
(一点に、凝縮だ。右舷ハイドロステップのエッジの一線だけに……俺の一千の命の火のすべてを、針の先のように尖らせて注ぎ込む!)
「――大時計、始動ッッ!!」
真冬の難波の夜霧を切り裂き、巨大な白針が回る。一コースから鎌倉さんが完璧なスリットスタートを叩き込んで水面を支配しにかかる。
第一ターンマーク。俺は一千の金属性マブイを、カウル全体への薄い防壁を完全に捨て、右舷ハイドロステップのエッジ一点にのみ、全出力を極限まで凝縮させた。
「――凝縮……一閃ッッ!!」
三十九号機の船底が、住之江の硬い反転波を抉る鋼の刃へと変形した。波の暴力を正面から一刀両断に切り裂き、機体は超常的な安定感のまま、最も狭い最短のインコースを滑り降り、鎌倉さんの真空の懐へと真っ直ぐに突き刺さった。
俺の紅い機首が、単独先頭へと踊り出た。
その〇・〇二秒後だった。
俺が切り裂いた航跡に、吸い込まれるようにして猛烈な速度で滑り込んでくる、銀色の影があった。
「甘いな、誠くん! 差しの一点凝縮をな、わざわざあんたに教えたんは……ワシがそれを、最内からさらに差し返すためやねん!!」
俺が全マブイを一点に集中させて切り裂いた結果、その航跡には空気抵抗も波の乱れも一切存在しない「完璧な平滑の道」が生まれていた。坂田さんの一号艇は、その道が生まれる一瞬の先で、三十年以上のキャリアのすべてを賭けて待ち構えていたのだ。
俺の機体が生み出した平滑の道のさらに数ミリ最内。「平滑化」で、俺のハイドロステップの懐を、深く、冷酷に抉り抜いていく。三十年以上の血涙と年輪が刻んだ「重層差し」。
激しいチェッカーフラッグが翻った。一着、坂田結衣。二着、速水誠。
ピットへ帰投し、三十九号機のカウルに手を置いたまま、俺は自分の震える両手を見つめた。
「……なぁ、瓜生。人生で一番完璧に、教えられた通りにできたのに。それすら利用されて、あの姐さんには勝てなかったよ」
瓜生は無言で隣に立っていた。奴の準優勝戦は五着だった。最終優勝戦の切符は届かなかった。それでも、俺の隣から一歩も動かなかった。
「落ち込んでんねん、誠くん。あんた、あの坂田の師匠に、自分の引き波を完璧に利用させたんやで。誇りなさいよ」
夜霧の中から、鎌倉さんが近づいてきて俺の背中をバチンと強烈に叩いた。他レースのフライングによる裁定で、鎌倉さんの繰り上がりが確定していた。七万の真空が、次なる戦いへの歓喜で一瞬だけピキピキと冷たく暴発し、ピットの寒気を物理的に歪める。
「師匠があそこまで本気で、見ず知らずのルーキーのラインを百パーセント信頼して牙を剥いたのなんて、ワシも何年ぶりかに見たわ。誠くん、あんたはもう若手扱いやない。師匠にとっても、ワシにとっても、本気で叩き潰すべきライバルになったんや」
俺は顔を上げ、冷たい冬の水でプロペラ洗浄を行う坂田さんの大きすぎる背中を、真っ直ぐに見つめた。
「速水誠、泣いても笑っても明日が本当の最後や。あんたの一点凝縮、次はどう化けさせてワシの首を獲りにくるんか……優勝戦の特等席で、楽しみに見せてもらうで!」
坂田さんが豪快に笑う。俺は菜奈から渡されたスーを両腕で抱きしめ、震える右手の拳を見つめた。
一点凝縮とマブイゼロ。この二つを同時に成立させる。凝縮した一千の刃を完全に機械の骨格へ明け渡し、俺という人間の存在を最後の一滴まで消し去る。それが、明日の坂田と鎌倉を同時に喰らう唯一の方法だ。
極寒のピットの壁に、最終優勝戦の番組表が張り出された。
一号艇・坂田結衣。二号艇・速水誠。三号艇・山崎征也。四号艇・守屋あおい。五号艇・堀尾大輔。六号艇・鎌倉明奈。
からくり競艇界のすべての歴史と因縁を結集した、究極の最終優勝戦。その番組が、難波の凍てつく夜空の下に、静かに、赤く、強調されながら張り出された。




