無の刃
二〇二八年、十二月。大阪・ボートレース住之江。
深夜の、静まり返った無人の整備室。工具が擦れ合う冷たい金属音と揮発油の匂いが漂う中、俺――速水誠は、三十九号機のマブイ導入バルブの微細な歪みと、たった一人で向き合っていた。
前日に坂田さんに最内を差し切られたあの瞬間が、呪縛のように脳裏を離れない。潜航という武器に意識を奪われ、旋回軸の「懐」をガラ空きにしていた。何かが、まだ足りない。だが、その何かが何なのか、俺にはまだ言葉にできなかった。
「なんや、えらい幽霊みたいな青い顔して、シリンダー睨みつけてんな、山口のルーキー」
一切の迷いのない重厚な足音が整備室に響き渡った。首にクタクタのタオルをかけた坂田結衣さんが立っていた。彼女がそこに姿を現しただけで、深夜の整備室の空気が、極寒の殺気へと塗り替えられていく。
「坂田さん。……先日の予選レース、完敗でした。俺の潜航の航路、最初からすべて見透かされていたんですね」
「曲芸としては百点や。でもな、からくりの競艇は波の底へ潜る深さを競うもんちゃうぞ」
坂田さんは俺の手から強引に工具を奪い取ると、三十九号機のクランクケースを、スパナでカン、と鋭く叩いた。
「あんたのコアマブイは一千。それをカウル全体へ薄く広げて潜航の防壁にしとる。だから真冬の重い水面を抉るエッジのグリップ力が、一番大事なところでスカスカになる。住之江の硬い反転波を、そんなスカスカのエッジで潜ってみい。明日の準優、底板を叩かれて一発で転覆大破やで」
坂田さんは俺の目を、深海のように暗い瞳で真っ直ぐに覗き込んだ。その瞳の奥には、幾多の死線を越えてきた覇者だけが持つ冷徹さと、それ以上の、言葉にしない不器用な職人の慈愛が同居していた。
「明日の準優、一回だけでええから、波に潜るのを我慢してみ。右舷ハイドロステップの極小の『一点』だけに、一千の全出力を凝縮させて、真っ正面から突き立てるんや。そうすれば、あんたの一千は――女王の完璧な真空の氷をも、内側から一刀両断に切り裂く『無の刃』に変わる」
「エッジの一点に……すべてを、極限濃縮……!」
気づいた瞬間、俺の中で何かが完全に繋がった。
以前やっていたことだ。毛髪よりも細く研ぎ澄まして、振動の波形へ真逆のパルスとして叩き込む。あの時の原点に、戻るだけだ。少ないからこそ、一点に凝縮させる。広げるのではなく、研ぎ澄ます。カウル全体に広げていた一千が、極小の刃になった瞬間、何が起きるか。俺にはもう、見えていた。
「……ありがとうございます、坂田さん。進むべき本当の最短の航路が、完全に視えました」
坂田さんは工具を俺の手へ戻しながら、足元に近づいてきたスーを一瞥した。菜奈が置いていったのだろう、スーがパチリと目を覚まし、坂田さんの足元へトコトコと歩み寄って、低い鼻をフガフガと鳴らしていた。
「不純物が一切ない、生身の命の温もりや。あんたの金属性マブイが尖りすぎた時、この子が余計なプレッシャーを吸い取っとるんやな。……ええ相棒やないか。あんたは持たざる者やない。強くなるために、余計なもんをすべて削ぎ落とした者なんや。自信持ち」
「礼なんか、耳に糞詰めて聞いてへんわ! その代わり、明日ヘボいレースしてみい、愛弟子の明奈と一緒に、難波の水底にボコボコに沈めたるからな!」
坂田さんは豪快な笑い声を響かせ、一切の摩擦を感じさせないまま、真冬の暗いピットの奥へと歩き去った。
「愛弟子の明奈」という一言が、俺の胸の奥で静かに反響した。女王の師匠が、俺の前に現れていたのだ。
俺はスーを両腕で強く抱き上げた。
「スー。……明日、俺はただ潜るのをやめる。住之江の氷の水面を、正面から切り裂く刃になるんだ」
スーが温かい鼻を俺の顎に押しつけた。それだけで、余計なものがすべて消えた。
ピットの裏口では、菜奈が俺たちの背中を、負けるつもりのない顔で見つめていた。第11話に倉敷の病室で一晩中祈っていた少女は、もうそこにいない。
「――大時計、始動まで、あと数分。全艇、ピット離れへと移ってください」
無機質なアナウンスが最終決戦の幕を告げる。俺の右舷ハイドロステップの極小の一点から、キリキリと空間の寒気を切り裂くような金属の冷たい陽炎が立ち上る。
広げるな。研ぎ澄ませ。
住之江の硝子の水面が、今、完全なる沸騰の瞬間を迎えようとしていた。




