最短の線
二〇二八年、十二月。大阪・ボートレース住之江。
ドリーム戦が終わった夜、展望室に坂田結衣さんがいると、ゆえが教えてくれた。大型電算モニターに俺の「潜航旋回」が繰り返し映し出されている部屋の前で、俺は思わず足を止めた。
坂田結衣さん。かつて「浪花の女帝」として数々のSGグランプリを制覇し、この住之江の頂点に君臨した生ける伝説だ。膝の古傷によって所属級別こそA2へと陥落していたが、過去のグランプリ覇者だけに許された永久優先選考枠によって、最高峰の舞台へ冷徹に滑り込んできていた。画面の前でベンチコートを羽織った背中は、どっしりとして微動だにしない。
翌日の予選最終日、ドリーム戦直後のピット裏で、坂田さんは鎌倉さんの前へ重厚な足音を立てて歩み寄った。
「明奈、あんた相手の動きに反応しすぎや。それでは自分の綺麗な真空が濁る。……ワシの膝はボロボロやけどな、からくりの腕は一ミリも錆びついとらん。調子に乗っとる若造どもに、本物の線の奪い合いを叩き込んでやるわ」
鎌倉さんが、一瞬だけ黙った。
その言葉の凄みは、翌日の予選最終日の水面で証明された。五十代という肉体の限界を微塵も感じさせない、体幹の極限のモンキーターン。住之江の凍てつく冬の水面と走る船底の間に生じる流体摩擦係数を、職人の超絶な調律によって極限のゼロへと近づける、超精密摩擦制御――「平滑化」。年輪と血涙が刻んだ、出力の多寡に一切頼らないからくりの純粋なる技術の深淵だった。
「うわぁ……骨董品の名刀みたいな、渋い美しさがあるね、あの人の走り」
ピット裏のモニターに釘付けになったゆえが、興奮で声を弾ませる。だが俺はその淀みのない航跡に、背筋が凍りつくような戦慄を覚えていた。俺が「潜航旋回」という武器を得てから、いつの間にか置き忘れてきてしまったものが、あの走りにすべて凝縮されていたからだ。
予選最終日、第十二レース。一コースに鎌倉さん、三コースに俺、六コースに坂田さん。
「大時計の針が、ゼロを刻む!」
俺は一千のマブイを水底の泥へと重く深く沈め、第一マークで鎌倉さんの懐へ強烈に仕掛けにいった。潜水からの強襲。だが世界の女王の目が、ヘルメットの奥で冷徹に光る。
「二度も同じ航路を通すほど、この住之江の水面は甘くないわよ、ルーキー!」
鎌倉さんは俺の潜航の軌道を完璧に予測し、七万の真空を扇状に展開して、俺の流体軌道を上空へと跳ね上げた。二人の凄まじい制空権の奪い合いに、数万の観客の目が釘付けになる。
だが坂田さんは、その大混沌を最初から計算していた。
俺が鎌倉さんの真空に阻まれてブレる瞬間、鎌倉さんが俺に応戦して旋回軸が〇・〇二秒だけ外側へ膨らむ瞬間、坂田さんの一号艇は既にそこへ向けて最短の角度を取っていたのだ。住之江のコンクリート壁が作り出す乱反転波を一切の摩擦なく完璧に受け流し、獲物を狙う蛇のように最内へと一閃、差し抜けていった。技術の虚無が、絶対の出力を素通りしていく。
「若いのんが派手にマブイ突っぱり合ってる間に……お先に最短距離で、失礼するわ」
チェッカーフラッグ。一着、坂田さん。二着、鎌倉さん。俺は三着へと沈んだ。
「見たか、誠。……あれが、坂田結衣の『平滑化』だ」
ピットで待っていた瓜生が静かに告げた。眼鏡の奥の瞳が、冷たく冴え渡っている。「俺の数式すら届かない深淵だ」。そう言いながら、端末を一度強く握り直した。電算士にも、計算できない領域があるという事実を、奴は今飲み込んでいる。
「……完璧に遊ばれた」
俺は三十九号機のステアリングを強く握りしめた。潜航という武器に溺れて、本質を見失っていた。怒りが、腹の底で静かに燃えていた。
坂田さんが手招きした。鎌倉さんも、俺も、その前に立つ。
「明奈、あんた相手の動きに反応しすぎや、さっきも言うたけど。それから、誠くん。あんたスピードと潜ることに夢中でな、一番大事な『懐』がガラ空きや。派手な潜水は客を喜ばせるには上等やけど、からくりの真実の勝負は、いつだって一番地味で、一番狭い場所――最短距離の線の奪い合いで決まるんや」
その言葉が、胸の最も深い場所へ痛烈に突き刺さった。
「……目が、完全に覚めました、坂田さん」
俺の顔から迷いが消えた。教習所で山崎の鼻を明かしたあの時の、ハングリーで凶悪な野生の目の光が、完全に復活した。
「ええ返事や! 次の最終優勝戦は、ワシも一歩も手加減せえへんで!」
坂田さんの豪快な笑い声が、真冬の住之江の夜空に響き渡った。
ピットの通路から、手続きを終えた菜奈がスーを抱えて戻ってくるのが見えた。あおいが隣を歩きながら、スーの頭を撫でていた。どうやら手続きの間、預かってくれていたらしい。スーがトコトコと俺の足元へ歩み寄り、低い鼻をフガフガと鳴らす。俺はスーを右腕で強く抱き上げた。
派手な潜水はもういらねえ。俺の一千の無を、最も地味で最も狭い最短の航路へ、さらなる深みへと研ぎ澄ませるだけだ。世界の頂点を毟り取るための本当の「無の最短線」の火が、難波の凍てつく黒い水面の上で、今、静かに、狂暴に燃え上がり始めていた。




