氷点下の残響
二〇二八年、十二月。大阪・ボートレース住之江。
SG「プレミアム賞金王決定戦」が、住之江の凍てついた水面に牙を剥いていた。ヤングダービーから七ヶ月。俺と瓜生、そして三十九号機は、泥水をすするような執念で全国の賞金戦線を荒らし回り、最下級B2の身分のまま、最高峰のSGグランプリの切符を力ずくでもぎ取ったのだ。
初日第十二レース「特選ドリーム戦」の出走表がピット裏に貼り出された瞬間、俺はヘルメットを持つ右手が武者震いで熱くなるのを感じた。
一コース・鎌倉明奈、二コース・山崎征也、三コース・堀尾大輔、四コース・守屋あおい、五コース・瓜生俊樹、六コース・速水誠。
全国の修羅の海で死線を交わしてきた化け物たちと、あの教習所の泥水から来た因縁の歯車たちが、グランプリ初日の一枚の番組に必然の奇跡で大集結していた。
「久しぶりだな、サウザンド。……ようやく俺の背中が見える位置まで、その泥臭い航路を伸ばしてきたか」
白銀のレーススーツに身を包んだ山崎が、瞳の奥に洗練された闘志を宿して俺の前に立ちはだかった。かつて教習所時代に周囲の大気を焦がした粗削りな紫電は消え去り、一万のマブイのすべてを機体周囲に極限まで凝縮させる指向性エネルギーの制御を完成させた、密度の怪物へと変貌していた。
「その綺麗な白銀、俺たちの泥臭い引き波で錆びつかせるなよ、山崎」
乗艇の直前、俺はピット裏で菜奈の腕の中からスーを受け取り、その頭を深く強く撫でた。温かい体温の重みで、自らの精神を完璧な無の凪へと純化させていく。かつてスーの温もりに狂いかけた心を繋ぎ止めてもらった。今はその温もりで、静かに無へと向かえる。
「――大時計、始動ッッ!!」
極寒の住之江に大歓声が響き、黒大時計の白針がゼロを刻んだ。全艇がスリットラインを通過した瞬間、山崎の白銀の機体が指向性マブイでカウル周囲の流体抵抗を完全相殺し、住之江の水面をナイフで切り裂くような白銀旋回で鎌倉さんへと猛烈に肉薄した。後方に狂暴な水の壁が生まれる。
俺はチルト「マイナス〇・五」のまま、その白銀の風圧の最深部へと三十九号機を真っ正面から突っ込ませた。一千のマブイを水底の泥へと重く沈め、衝撃波の真下へ潜水するようにして接地する。波の暴力を丸ごと推進力へ変換する「潜航旋回」だ。
同時に、山崎の指向性エネルギーの死角へ、銀の閃光が最内から滑り込んでくるのを感じた。気配がない。音がない。それでもそこにいる。瓜生だ。
「計算の余白は……今、完璧に繋がった! 差し切るぞ、誠!」
瓜生の無響ステルスが山崎の旋回軌道の最内をこじ開け、山崎の回避行動が〇・〇二秒だけ遅れた。俺はその一瞬の空白へ、三十九号機を弾丸のように飛び込ませた。ヤングダービーで刻んだ立体交差の残響が、山崎の白銀の航跡を内側から差し切っていく。
カウル越しに、山崎の顔が見えた。歯を食いしばって悔しさを飲み込んでいる。第1話で「一千の雑魚が」と吐き捨てた男が、今、俺たちの名前を水面で刻まれている。
「バカな……あの教習所の落ちこぼれどもが、本当に理をハッキングしやがったか……!」
判定――一着、鎌倉明奈。二着、速水誠。三着、瓜生俊樹。四着、山崎征也。五着、守屋あおい。六着、堀尾大輔。
だが、二着の俺たちの遥か前方。一切の水飛沫を上げず、摩擦の音すらなくゴール板を駆け抜けた機艇があった。鎌倉さんだ。
俺たちが山崎と極限の死闘を繰り広げるその遥か背後で、彼女の七万の真空は住之江の水面全体を波一つない「硝子の鏡面水面」へと完全変形させていたのだ。頭の中では分かっていた。それでも、実際にあの背中を見た瞬間、遠さが骨まで刺さった。世界の女王の格は、まだ遥か天上にある。
「完全に負けたよ。あのコンマ数秒の三次元の連携、もはや芸術だね」
艇から降りた山崎が、悔しさを押し殺した不敵な笑みで右手を差し出してきた。俺はその手を強く握り返した。
「最終優勝戦の舞台で、完璧に決着をつけようじゃねえか、山崎」
「望むところだ」
山崎が去ると、黒いレースーツを真冬の寒風に揺らしながら、鎌倉明奈さんが静かに歩み寄ってきた。彼女がそこに立っただけで、住之江のコンクリート床にピキピキと冷たい霜が走るのが見えた。
「随分といいキレの牙を仕込んできたじゃない、最下級のルーキー。でも、私の鏡面水面の最深部は、そんな連携では崩せないわよ」
「この一千の火が完全に消え去って、三十九号機と融け合うその瞬間にさ。あんたの硝子の鏡を、内側から粉々に叩き割って証明してみせますよ、鎌倉さん」
俺は血の味のする顔のまま笑い、三十九号機のハルの軋みを右手の拳で受け止めた。
グランプリ最終優勝戦への宿命の号砲が、難波の真冬の夜空の下で、今、完全に切って落とされた。




