表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
からくり競艇 ~黄金の波切り、魂のフルスロットル  作者: 水前寺鯉太郎
第2章:駆け出し編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/193

第24話:浪速の女傑、再起の眼光

 2028年7月7日。真夏の暴力的な陽光が照りつける下関競艇場。

 冷房の効いたピット展望室の静寂の中で、一人の女性がモニターを凝視していた。画面に映し出されているのは、前日のSG『マブイ開花賞』ドリーム戦。速水誠がチルト3.5の揚力を使い、女王・鎌倉明奈の頭上を文字通り飛び越えた衝撃の瞬間である。何度もリプレイされるその映像を、彼女は腕を組んだまま、射抜くような鋭い視線で見つめていた。

 坂田結衣、51歳。

 大阪支部の重鎮であり、かつては「浪花の女帝」として数々のSGを制覇した伝説のレーサーだ。そして、他でもない鎌倉明奈に競艇のいろはを叩き込んだ師匠である。

 「……あの子、ええ顔して走っとるわ。でも明奈、あんた、今の『ジャンプ』でちょっとビビったやろ?」

 坂田は、50代とは思えないバイタリティと、周囲を圧倒する姉御肌なオーラを放っている。近年は膝の古傷の影響もあり、B1級まで陥落してSGの表舞台からは遠ざかっていたが、愛弟子の敗北、そして「速水誠」という異質な才能の出現が、彼女の中で眠っていた勝負師の魂を呼び覚ましていた。

 レース後のピット。ヘルメットを脱ぎ、悔しさと困惑を隠しきれない明奈の前に、坂田がどっしりとした足取りで歩み寄った。

 「明奈、何ぼーっとしてんねん。あんなチルト3.5の曲芸、一回見たら次は対策できるやろ。あんたの『静』のマブイは、若造のジャンプ一発で揺らぐほど柔なもんか?」

 「師匠……。申し訳ありません。ですが、あの瞬間の気流と反発を利用する動きは……」

 「言い訳はええ! 道具やマブイの量に頼るから足元すくわれんねん。明日の一般予選、私も走るわ。B1まで落ちても、腕は錆びてへんこと見せつけたる」

 翌日の一般予選。坂田結衣の名前が番組表に載った瞬間、場内はどよめいた。そして彼女は、下関の水面で「格」の違いを冷徹に見せつける。51歳とは思えない、体幹のブレが一切ない極限のモンキーターン。

 彼女のマブイは、誠の爆発力や明奈の絶対静止とは対照的に、まるで何万年も岩を削り続けてきた「淀みのない水の流れ」そのものであった。水面のわずかな隙間、髪の毛一本分の航跡を縫うように機体を滑らせる技術は、もはや暴力的なマブイの量を必要としない。

 「誠師匠! あのベテランの人の旋回、マジで無駄がなさすぎて『エグい』を通り越して『エモい』んだけど! 骨董品みたいな美しさがあるっしょ!」

 一番弟子の野田あかりも、整備の手を止めて坂田の走りに釘付けになっていた。誠もまた、その航跡を見て背筋に冷たいものが走るのを感じていた。そこには、自分がチルト3.5という「翼」を得てから、どこかに置き忘れてきたボートレースの本質が凝縮されていたからだ。

 2028年7月9日。SGマブイ開花賞、予選最終日。

 誠の「空飛ぶチルト3.5」が今節の主役として話題をさらう中、下関の水面にはもう一つの静かなる脅威が牙を剥こうとしていた。

 メインレース、第12レース。

 1コースには、昨日の雪辱に燃え、マブイの鏡面をさらに硬く研ぎ澄ませた鎌倉明奈。

 3コースに、新進気鋭のS級レーサー、速水誠。

 そして6コースの大外、ピンク色のカポックを纏って不敵に笑うのが、坂田結衣である。

 「大時計、始動!」

 12秒計の針が頂点を指すと同時に、誠の39号機が咆哮した。チルト3.5の出力を最大噴射し、第1マークで再び明奈の頭上を越えようと高く跳ね上がる。

 「昨日のようにはいかないわ、誠くん!」

 明奈もそれを察知していた。自身のマブイの壁を扇状に上空へ展開し、誠の「空路」を物理的に遮断する。誠と明奈、二人の天才による高さと制空権を巡るハイレベルな攻防。観客の視線は、水面から浮き上がった39号機に釘付けになった。

 しかし、その瞬間であった。二人が上空と水際のラインで激しく火花を散らす、その第1マークの最内。針の穴を通すような、わずか数十センチの空白。

 「……若いのんが派手に空中戦やってる間に、お先に失礼するわ」

 坂田結衣のマブイは、派手なエフェクトを一切伴わない。代わりに、水と機体の摩擦係数を極限までゼロに近づける「平滑化」を成し遂げていた。誠が跳ね、明奈がそれを防ごうとしてわずかにターンが膨らんだ、その一瞬の「マブイの空白地帯」。

 坂田はそこを、獲物を狙う蛇のように鋭く、そして音もなく差し抜けた。

 「何っ!? いつ、そこに……!」

 誠が着水したときには、坂田の機体はすでに1艇身、先行していた。明奈の絶対静止すらも、坂田の淀みのない流れには干渉できなかったのだ。

 結果は、坂田結衣の鮮やかな差し切り勝ち。2着に明奈、誠は坂田の引き波に捕まり3着に沈んだ。

 ピットに戻った後、瓜生俊樹が誠のそばに寄り、静かに言った。

 「……誠、見たか。あれが坂田さんの『差し』だ。俺の『無』とはまた違う。相手の欲や熱量を逆に利用して、急所を突く技術……。ベテランの深淵だな」

 坂田はヘルメットを脱ぎ、額に張り付いた髪をかき上げながら、誠と明奈を呼び寄せた。

 「明奈、上ばっかり見てどないすんねん。相手の動きに反応しすぎや。誠くんも、飛ぶことに夢中で『懐』がガラ空きやで。派手なパフォーマンスは客を喜ばせるけど、勝負はいつだって、一番地味で、一番近い場所……最短距離で決まるんや」

 坂田の言葉は、鋭い刃のように誠の胸に突き刺さった。S級になり、チルト3.5で格上を倒せるようになった自分がいかに慢心していたか。新しい武器に頼るあまり、ボートレースの基本である「最短の内側を獲る」という本質を疎かにしていた。

 「……ありがとうございました、坂田さん。目が覚めました」

 誠が深く頭を下げると、坂田はガハハと豪快に笑い、誠の背中を力いっぱい叩いた。

 「ええ返事や。SGの準優勝戦、私も残ったからな。次は手加減せえへんで、山口の跳ねっ返りくん!」

 シロが坂田の足元にトコトコと歩み寄り、彼女の淀みのないマブイを認めたのか、満足げに尻尾を振った。誠は、坂田結衣という巨大な壁を目の当たりにし、さらなる高みへと魂を研ぎ澄ませる決意を固めたのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ