第184話:黄金の失速、備前の罠 ― キャビテーションの戦慄 ―
第百八十二話:真空の罠 ―― 崩れ落ちた黄金、蒼き死神の嘲笑 ――
第一章:備前、水晶の牙
2031年9月20日。岡山県、備前競艇場。
九月の高く澄み渡った秋空の下、第1レースの火蓋が切って落とされた。スリットラインを通過した瞬間の衝撃波が、備前の「完全静水面」を残酷に切り裂く。
一号艇、速水誠。二号艇、大内胤賢。
コンマ00という、もはや人間の反応速度を超えた「神域のタッチスタート」を決めた二人は、時速100キロを優に超える速度で一マークへと突っ込んだ。
誠の黄金のマブイと、大内の蒼い閃光が、一本の線となって交錯する。
「誠、インから最速の旋回を狙う!! 『黄金・旋風』、ここで大内を突き放すか!?」
実況の絶叫が轟く中、誠はハンドルを鋭く切り込んだ。膝の上のシロが黄金の瞳を輝かせ、39号機のエンジンが咆哮を上げる。しかし、その刹那、誠の指先に伝わってきたのは、これまで経験したことのない「不気味な感触」だった。
「……っ!? 手応えが……ない!?」
誠が叫んだ。あかりが極限まで薄く、鋭く削り出した蔵野家秘伝の秘密兵器**「金属性・スプリンター」**。その超高回転プロペラが、備前の「静水面」で最悪の事態を引き起こしていた。
通常の水面であれば、わずかな「うねり」が空気を巻き込み、プロペラの回転に粘りを与える。しかし、不純物も揺らぎもない備前の静水面において、超高周波振動を伴うプロペラは、水の物理的限界を超えてしまったのだ。
プロペラ翼の背面圧力が水の飽和蒸気圧 を下回った瞬間、水は沸騰し、無数の微細な「真空の泡」が発生する。
このキャビテーション係数 が臨界値を下回った。
プロペラは水を掴むことを拒絶し、真空の泡をかき混ぜるだけの「空転」状態に陥る。
「なっ……!? グリップが全く効かないっす! 機体が制御不能っす!!」
ガガガガッ! という、金属が悲鳴を上げるような激しい振動が誠の全身を襲う。0.00秒の加速で得た時速120キロ近い慣性が、制御を失った誠を、一マークの遥か外側へと無慈悲に放り出した。39号機の船尾が激しく左右に暴れ、水面を激しく叩く。
「1号艇、速水誠、痛恨のキャビテーション(空転)!! 外側へ大きく膨らんだぁぁ!!」
「……甘いね、速水くん。スプリントの静水面を理解していない」
誠がコントロールを失い、外側の消波装置付近まで流されたその一瞬の隙。
二号艇の大内胤賢は、この事態を予見していたかのように、冷徹なまでに正確なハンドル捌きを見せた。
彼の駆る「ソニック・アロー」は、誠が作り出した「真空の泡」のわずか数ミリ内側、残留する静水面を正確に捉える。大内の艇は一切の余計な飛沫を上げず、まるで鋭利な剃刀が絹を切り裂くように、誠の懐へと最短距離の「差し」を突き刺した。
「抜けた!! 大内胤賢、一気に先頭! 誠は後続に飲み込まれ、5番手まで後退!!」
大内の蒼いマブイが、誠の視界を嘲笑うかのように通り過ぎていく。大内はバックストレッチに出た瞬間、一切の迷いなく最高速まで加速し、誠との距離を絶望的なまでに広げていった。
外側へ大きく流され、消波装置ギリギリで辛うじて機体を立て直した誠。
エンジンの回転数は異常な数値を叩き出し、機体からは空転したプロペラが焼き付くような、鼻を突く焦げた臭いが漂っていた。
「くっ……シロ、ごめん。俺、五冠を急ぎすぎて……あかりが作ってくれたプロペラの、繊細な限界を見誤った……」
誠の心に、激しい後悔と焦りが渦巻く。
スプリント戦において、5艇身もの差をつけられた5番手。それは事実上の敗北宣言を意味する。
だが、その時、誠の膝の上でシロが力強く誠の脚を叩いた。
(フゴ……ッ! フゴフゴッ!!)
シロの瞳は、まだ死んでいなかった。それどころか、かつてないほどの激しい闘志で燃え上がっている。鼻を鳴らし、「まだ終わっていない、前を見ろ」と誠を叱咤する。
「……そうだな、シロ。ここで諦めたら、あおいやあかり、山口のみんなに顔向けできない……!」
誠の瞳に、再び黄金の炎が宿る。
たとえプロペラが水を掴めないのなら、その現象そのものを利用するまで。
「師匠!! 聞こえるっすか!? 諦めるのはまだ早いっす!!」
誠のヘルメット内の通信機に、ピットから野田あかりの怒鳴り声のような叫びが飛び込んできた。
「そのプロペラ、キャビっても死んでないっす! 蔵野家の金属性パーツは、真空の中でもエネルギーを増幅させるっす! その泡を『抵抗』じゃなくて、『潤滑剤』にして回るっす!!」
「泡をクッションに……!? あかり、それは……プロペラ全体を巨大な空気の層で包み込むってことか!?」
「その通りっす! **『超空洞航法』**っす!! 泡を飲み込んで、泡ごと爆発させるっす!! プロペラが砕けるまで回せっす、師匠!!」
誠はゴクリと唾を呑み込んだ。
通常、キャビテーションは避けるべき現象だが、それを意図的に制御し、プロペラ全体を巨大な気泡で包み込むことで、摩擦抵抗を劇的に減らす理論。からくり競艇の理外にある、物理法則の極限。
「やってやるっす……! 泡ごと、備前の海を飲み込んでやるっす!!」
誠の逆襲の予兆に、世界の観測者が再び熱狂した。
からくり競艇公式YouTube『カササギ』PV更新
> 【波乱の幕開け】速水誠、痛恨のキャビテーション! 王者が備前の水面に沈むか!? 大内胤賢が圧倒的リードで独走態勢! 絶望の5番手から、黄金の王はどう這い上がるのか!? 累計PVは一気に17億を突破!! サーバーは現在、誠の放つ『真空の圧力』で物理的に圧壊中!!
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【第1R:2周目1マーク手前 情勢】
| 順位 | レーサー | 状態 | 属性 |
| 1位 | 大内 胤賢 | 独走。完璧な「蒼い閃光」。 | 冷徹・速 |
| 2位 | 安貞 雄一 | 堅実な走りで追随。 | 龍・影 |
| 3位 | 平野 菜奈 | 展開を待ち、牙を研ぐ。 | 知略・塩 |
| 4位 | 石田 健太郎 | 虎視眈々と順位を上げる。 | 静・無 |
| 5位 | 速水 誠 | 再始動。真空を纏う。 | 黄金・気泡 |
「師匠、大丈夫っす! その泡を『クッション』にして回るっす!!」
あかりの叫びを背に、誠はスロットルレバーを限界まで叩き込んだ。
エンジンの回転数が、通常の機体なら確実に爆発する「18,000rpm」を突破する。プロペラ周辺で発生した真空の泡が、39号機の船尾全体を包み込み、黄金の淡い光を放つ繭のようになった。
摩擦が消える。
水という重い液体を掻き分けるのではなく、真空の空洞の中を突き進む、異次元の加速。
「な……速水誠、5番手から信じられない伸びを見せている!! 泡を引き連れながら、前方の3位、4位を一気に射程圏内に捉えた!!」
実況がひっくり返ったような声を上げる。
誠の39号機は、もはやボートの動きではなかった。それは水面を跳ねる弾丸、あるいは空間を滑る雷鳴。
2周目、1マーク。
先頭をひた走る大内胤賢の背中が、再び誠の視界に大きく映し出された。
「大内さん……『最速』の定義を、今ここで書き換えてやるっす!!」
黄金の気泡を纏った誠が、再び「蒼い閃光」の背後に牙を剥いた。




