五冠一閃、神域の跳躍
2030年9月25日。岡山県、備前競艇場。
『SG最速機兵決定戦』優勝戦。
瀬戸内海に沈みゆく巨大な夕日が、徹底的に管理された完全静水面を燃えるような朱に染め上げていた。そのぎらつく反射光は、ナイター照明の青白い輝きと混ざり合い、水面に一枚の巨大な「血の魔鏡」を作り出している。この美しくも残酷な舞台で、からくり競艇史を塗り替える命懸けの最終決戦が始まろうとしていた。
ピット裏。俺の6号艇、39号機の周囲には、皮膚がヒリつくほどの異様な緊張感が漂っていた。予選初戦の最下位という絶望の淵から、バイパス直結、過給圧120%、そして空中旋回という狂気の航跡を経て、俺たちはこの優勝戦まで這い上がってきた。だが、その対価はあまりにも大きすぎた。
「師匠……このエンジン、もう完全に限界を超えてるっす。あと3周……いや、スタートの凄まじい衝撃だけでも、もたないかもしれないっす……!」
メカニックの野田あかりの手は、連日の不眠不休の整備と過熱した金属パーツによる火傷、そして重油でボロボロに傷ついていた。彼女が震える指で示したシリンダーブロックには、肉眼でもはっきりと確認できるほどの無数の亀裂が走り、そこから俺たちの黄金のマブイが、まるで断末魔の吐息のように激しく漏れ出している。
「大丈夫だ、あかり。この子は、俺たちが五冠を獲るまで絶対に止まらねえ。……そうだろ、スー?」
俺が祈りを込めて熱を帯びたエンジンカウルに触れると、隣にいた最高の戦友、スーが静かに、しかし決然と黄金の瞳を輝かせて吠えた。
ガルゥゥゥゥォォォォンッ!!
その瞬間、スーの黄金の毛並みが爆発的な光を放ち、実体化したマブイが「金箔」のように39号機の機体全体を覆い始めた。スーは自らの生命エネルギーそのものを凄まじい濁流に変え、内側から崩壊寸前のエンジンを力ずくで繋ぎ止めたのだ。39号機が、神々しくも悲しい最期の咆哮を上げた。
【からくり競艇公式YouTube『カササギ』Template更新】
> 【奇跡の空中旋回へ】速水誠、チルト3度で大外から歴史を強襲! 備前SG優勝戦、アクセス集中により公式配信サーバーが一時ダウン!!
「優勝戦、全艇がピットを離れた! 1号艇・『最速の申し子』大内胤賢、インコースをがっちり確保! そして6号艇・速水誠、宣言通りの大外引き!! チルト3度、黄金の翼が再び備前の空を狙う!!」
実況の絶叫が、嵐の前の静けさに包まれた観客席を激しく震わせる。
1号艇の大内は、蒼き愛機「ソニック・アロー」の出力を最大に安定させ、鏡のような水面を冷徹に見据えていた。
「速水くん。君の執念は認めるよ。だが、物理法則を無視した暴走は、ここで終わりだ」
大時計の針が、運命の12時を指す。
「スタートしました!! 1号艇・大内、6号艇・誠! 両者、またしてもコンマ00!! フライングなし、審判も絶句する究極のスリットラインだ!!」
二筋の光の矢が、備前の水面を同時に切り裂く。大内の「蒼い閃光」がインから最短距離を支配しようとするが、俺の「黄金の水上ロケット」は、チルト3度による圧倒的な浮力とバイパスから激しく噴き出すマブイの火柱によって、水面を滑るというより、もはや空間を滑走するに等しい異次元の初速を叩き出した。
第1マーク。大内が完全に勝負に出た。俺の捲り差しを封じ込めるため、自らの機体周辺に破壊的な「蒼い引き波」を展開。それは、俺を再びキャビテーションの罠にハメて沈めるための、物理的なマブイの壁だ。
「速水くん、ここが君の墓場だ!! 泡の中に沈め!!」
「……いいや、大内! そこは俺の『滑走路』だ!!」
俺は、あかりが0.05ミリの極限まで研磨した白銀のプロペラを、あえて大内の引き波が作り出す真空の泡へと猛烈に突き刺した。
ギギギギギギギギッ!!!
機体が引き裂かれるように激しく軋み、エンジンからは黒煙と黄金の火花が爆発的に噴き出す。だが、俺はそのキャビテーションの泡を力ずくで超圧縮し、燃焼室のバックファイアと完全に同期させた。真空の泡が爆発し、その凄まじい反動が、39号機を水面から完全に解き放った。
「消えた!? ……いや、上だ! 黄金の鷲が、大内の頭上を越えたぁぁ!!」
物理法則そのものを叩き潰して置き去りにする「神域の跳躍」。俺の39号機は、大内の蒼き壁を光の矢となって貫き、第1マークの頂点からゴールへの最短経路を虚空へ突き抜けた。
バックストレッチ。トップに躍り出た俺。しかし、39号機のエンジンは、もはや鉄の塊としての形を保つのが精一杯だった。ピストンはドロドロに溶け落ち、潤滑油は枯れ果てている。
「あと少し……あと少しだけ、回ってくれッ!!」
俺の魂の叫びに呼応するように、スーが最後のマブイをクランクに激しく叩き込む。
第2マーク。あおいから魂に叩き込まれた、一切の無駄を削ぎ落とした「静水の旋回」。もはや加速する余力なんてどこにも残っていねえ。俺は慣性と、スーが命を紡ぎ出す微かな回転の惰性だけで、黄金の航跡を美しく残しながら、ホームストレッチへ帰還した。
「1着、速水誠!! 年間五冠達成!! からくり競艇史に刻まれる不滅の伝説だぁぁ!! 全てのSGを制覇、グランドスラム達成!!」
チェッカーフラッグが激しく振られたその瞬間、39号機のエンジンは、文字通り霧散するようにそのすべての咆哮を完全に止めた。ゴールラインを越えた直後、カウルが割れ、愛機は静かに水面へ沈み込んでいく。俺は沈みゆくシートの上で、マブイを使い果たしてぐったりとしたスーを強く抱きしめ、救助艇のライトに照らされながら黄金の余韻に身を任せた。
びしょ濡れのまま救助艇でピットに戻ると、そこには顔を真っ黒に汚したまま、泣き笑いするあかりの姿があった。
「師匠……五冠、本当に、獲ったっすね……!!」
「ああ、あかり。お前のプロペラが、俺に最高の翼をくれたんだ」
満身創痍の俺たちの前に、ゆっくりと歩み寄ってくる影があった。守屋あおいだ。彼女の瞳には、俺の偉業に対する深い敬意と、それ以上の激しい闘志の炎がパチパチと音を立てて燃えていた。
「おめでとう、誠くん。グランドスラム、見事だったわ」
あおいは俺の濡れた髪をそっと拭いながら、その妖艶な唇を俺の耳元に寄せ、ゾクりとするほど冷たく、そして熱い声で囁いた。
「でも、ボロボロになりながら勝つのはここまでよ。3ヶ月後、12月の高松グランプリ……最後の六冠目は、私の『氷』があなたを完全に凍らせてあげるから」
恋人として、そして生涯最強の守護者としての宣戦布告。俺は不敵に笑い、胸の中でかすかに鼻を鳴らしたスーの身体を、愛おしさを込めて優しく抱きしめ直した。
暮れゆく秋の空には、冬の絶対王座へと続く、最初の一番星が獰猛に輝き始めている。速水誠の物語は、ここからさらなる神話へと突き進む。




