無の境地、チルト3度の引鉄
2030年8月30日。長崎県、大村競艇場は、かつてない静寂とそれに続く爆発的な怒号に包まれていた。
予選を二位という輝かしい成績で通過した、この俺――速水誠。通常、準優勝戦での二位通過者は、その組の「1号艇」として、最も有利なインコースに鎮座するのが鉄則だ。四冠の栄光を本気で目指す俺にとって、ここは確実に逃げを決め、優勝戦の絶好枠を勝ち取るための堅実な戦いが必要なはずだった。
しかし、ピットから離れた二号艇、黄金の39号機が取った行動は、競艇界百年の常識を根底から叩き潰すものだった。
「準優勝戦、スタート展示!! ……なっ、何ということだァァ!! 二号艇の速水誠、艇を限界まで後ろへ引き始めた! 四、五、 コース……大外、六コース奪取!? 誠、自らインの絶対の利を捨てたぁぁ!!」
実況の、喉をかきむしるような絶叫がこだまする。スタンドのファンからは「何をやっているんだ誠!」「正気かテメェ!」という激しい罵声と困惑が嵐のように飛び交う。
だが、俺の瞳には、一点の曇りもなかった。
前日の予選最終日、地元の総帥・新武友哉に真正面から叩きつけられた、あの絶望的な地力の差。圧倒的なマブイ量を誇りながら、大村の海を知り、風を友とするベテランの深淵の前に、俺は手も足も出ずに完敗したのだ。
『速水くん、四冠ば本気で獲りたかなら、次は自分ば捨てることバイ。海と完全に一体にならんね』
新武さんの放った重苦しい言葉が、俺の魂を激しく削り、再構築させていた。
「新武さん。俺、やっとわかったよ。三冠王なんていうくだらねえ自分を守ろうとしてるうちは、大村の本当の風は掴めねえ。俺はもう一度……あのデビューの時みたいに、何も持たざる修羅として、風と波にこの命のすべてを預ける!!」
コクピットの足元で、スーが俺の覚悟に応えるように、その四肢を踏ん張りながら黄金のマブイの炎を爆発的に燃え上がらせた。
ガルゥゥゥゥォォォォンッ!!!
その神々しい咆哮は、俺の全神経を激しく覚醒させていく。
展示終了後のわずかな時間。俺は整備室で誰の助けも借りず、独りきりで39号機の心臓部――モーターの取り付け角度を、狂気的な手つきで調整していた。
俺が選択したのは、前代未聞の「チルト3度」。
競艇において、チルト角度を極限まで上げることは、ボートの舳先を強引に持ち上げ、水面との接地面積を限界まで減らすことを意味する。接地が減れば水との摩擦抵抗は消え、直線での伸び脚は爆発的な水上ロケットと化す。しかし、それは同時に旋回性能を完全にドブに捨てることを意味し、わずかな波の跳ね返りで機体が空中でバラバラに分解する、まさに自殺行為に等しい。
「師匠……それ、マジで言ってるっすか!?」
通信端末の画面の向こう、別会場のレディース戦にいるあかりが、顔を真っ青にして絶句していた。
「うちが組み込んだ金属性パーツ、剛性は最強っすけど、チルト3度の殺人的なGに耐えられる設計にはなってないっすよ! 壊れるっす! 師匠の肉体がバラバラに吹き飛んじゃうっすよォォォッ!!」
「いいんだよ、あかり。もし壊れたら、またお前が何度でも直してくれ。今は……この大村の風の中に、俺の全人生を投げ出す時だ!!」
俺は整備室の壁に貼られた、あおいとあかり、俺たち三人の写真を強く見つめた。愛する者たちの期待、王者の安っぽいプライド、敗北の引き裂かれるような悔しさ。そのすべてを完全に脱ぎ捨て、俺はただの一人の飢えたレーサーとして、大村の最果て、60メートルラインを遥かに越えた大外へと愛機を向けた。
【からくり競艇公式YouTube『カササギ』PV更新】
> 【狂気か、天才か】速水誠、準優勝戦で衝撃の6コース引き&『チルト3度』を完全敢行! 勝利の定石をすべて捨て去った黄金の挑戦に、世界中のタイムラインが完全凝視!!
「大時計の針が回る! 準優勝戦、歴史が動くスタートォォォッ!!」
1号艇の安貞雄一がインコースから龍のマブイを爆発させ、完璧な逃げ体制を築こうと牙を剥く。
しかし、大外6コースから放たれた俺の39号機の加速は、もはや物理現象の域を完全に超越していた。
「速水誠、スタート展示の宣言通り!! 6コースから、まるで水面を爆走する黄金のトビウオだ!! チルト3度、完全に機体が浮いている!!」
摩擦が完全に消滅した39号機。あかりが換装してくれたパーツが、凄まじい超振動で悲鳴を上げている。機体は今にも空中で大爆発しそうなほど激しく暴れているが、俺はハンドルを握り締める力を、あえて完全に抜いた。
(抵抗するんじゃない……大村の波のリズムに、俺の命を完全に同期させるんだ……!!)
俺はマブイを機体全体に広げて守る生ぬるい真似をやめ、プロペラの先端と、水面に触れるわずか数ミリの絶対の接地面だけに、体内の全エネルギーを超集中させた。
奥義――『黄金の波切り・極』ッ!!
それは力まかせの強引な断絶ではない。大村湾特有の細かな牙のようなうねりを、俺は黄金のマブイの刃で、優しく撫でるように滑り抜ける。波の頂点から次の頂点へと弾丸のように飛び移り、その激しい衝撃をすべて、前に進む推進力へと力ずくで変換する。自分を捨て、風に身を任せた俺は、今、大村の海そのものと完全に魂が同期していた。
「速水誠、一気に内を絞ってきたぁぁ!! 5艇、4艇……1号艇の安貞さえも、その射程圏内だ!!」
第1マーク。インから安貞が龍の壁を強烈に張り、俺の捲りを殺そうとブロックしてくる。
しかし、俺の視界には、もはや敵の姿なんて1ミリも見えちゃいなかった。ただ、足元で踏ん張るスーがその黄金の瞳で示した波の隙間と風の通り道が、眩い黄金のレールとなって空中にハッキリと浮かび上がっていた。
「そこか、スー……ッ! 跳ぶぞォォォォッ!!」
俺は第1マークの巨大な水の渦、その最もエネルギーの圧力が高い位置を、波切りの刃で完璧に踏み台にした。チルト3度の圧倒的な浮力を利用し、一気に全艇を水面からゴボウ抜きにする、超特大の跳躍捲りだ。
「なっ……何だあの旋回は!? 第1マークの上空を走っているのか!?」
安貞が驚愕のあまりコクピットで絶叫する。彼の張った龍の壁は、俺の遥か上を通り抜けるロケット加速に、一切触れることさえできなかった。
黄金の閃光が大村の空を猛烈に舞い、着水の瞬間に、水面のリズムを1ミクロンの狂いもなく完璧に捉えた。立ち上がった瞬間、俺の39号機はすでに後続を3艇身以上引き離し、完全な独走態勢に入っていた。
ピットに戻ってきた俺を、真っ先に迎えてくれたのは、昨日俺を打ち負かした新武友哉さんだった。
「……見事バイ、速水くん。己を完全に捨て去って、アウトから大村の本当の風を掴みよったな。良か走りバイ。そん自分ば持たん絶対の強さ、生涯忘るんなよ」
新武さんの言葉には、かつての圧倒的な威圧感じゃなく、未来の王の後継者を見守るような熱い温かさに満ちていた。
「ありがとうございます……新武さん、優勝戦。俺は、本当の四冠を、お前をぶち抜いて掴みに行きます!!」
そして、画面の向こうのレディース会場。
「師匠……もう、心臓がバーストするかと思ったっすよ! でも、うちのパーツ、あの殺人的なGに耐えきったっすね……! 師匠、最高の波切りだったっす!!」
あかりの、涙混じりの最高の叫び声に、俺は獰猛に微笑んだ。遠く離れた場所で戦うあおいも、モニター越しに俺の無事と勝利を確信し、その熱き氷のマブイを静かに滾らせていた。
四冠への挑戦、ついに絶対の王手。決勝戦の相手は、再び相まみえる「長崎の龍」新武友哉。俺たちの黄金と、新武さんの龍。大村のすべてを懸けた最後の一戦が、明日、大爆音と共に幕を上げる。
全員まとめて、俺たちのスピードでぶっちぎってやる。明日、世界に本当の伝説を見せてやるぜ!




