第168話:鋼の悪夢、水面の陥落 ― 9R・屈辱の3着 ―
2030年8月2日。午後、兵庫県・尼崎競艇場。
本来、その静謐さから「センタープール」と愛称される尼崎の水面は、今や阿鼻叫喚の地獄と化していた。
大宮橋右衛門杯、予選第9レース。1マークにおいて、大宮家の禁忌である全長20メートルの鋼鉄機獣**「大ムカデ(百足)」**が解き放たれ、その巨大な節足が速水誠の39号機を無慈悲に捕らえた。福岡の重鎮・西野貴志が「爆炎・地獄蒸し」を放ち、ムカデの装甲を赤熱させて誠を救おうと試みたが、その「熱」さえもが、狂気に染まった大宮忠志の計算の内であった。
カササギの超高精度ドローンが捉えた映像には、真っ赤に焼けた機獣の背中を「レール」として、物理法則をあざ笑うかのように加速する大宮忠志の姿が映し出されていた。
「大宮忠志、なんという狂気! 西野の爆炎で赤熱した大ムカデの節足を、あえて自機の『推進力』へと変換! 水面を滑るのではなく、機獣の背をレールにして弾け飛んだぁぁ!!」
実況が絶叫する。西野の援護によってムカデが誠を掴む力を一瞬緩めたその隙、忠志は自らの機獣を「敵を阻む壁」ではなく、自分だけを前方へと押し出す「巨大なカタパルト」として利用した。
赤熱した装甲が水面と触れ、爆発的な水蒸気が発生。その反動をすべて受け止めた大宮の機体は、まるで大砲の弾丸のように1マークを最速で駆け抜けていく。
一方、誠の39号機は、ムカデの尾が跳ね上げた巨大な水壁と、西野の爆炎による猛烈な乱気流に巻き込まれた。
「うわあああぁっ!!」
視界は真っ白な蒸気と炎の色に染まり、機体はムカデに船底を削られたダメージで本来の浮力を喪失。激しいピッチング(前後揺れ)を起こし、誠はスロットルを戻さざるを得なかった。黄金のオーラが、この混乱の中で煤けた色に陰りを見せる。
「……しまっ、誠! すまん、奴の機獣を焼き切るのが精一杯だった!!」
西野が無線越しに叫ぶ。彼は2番手で必死に忠志を追いすがるが、先行する忠志はすでに完璧な防衛体制を敷いていた。
忠志は後方に向け、大量の**『盾甲虫』**を散布。それらは誠や西野の航路を物理的に塞ぐ壁となり、尼崎の静水面を「大宮の私有地」へと変貌させてしまった。
誠は、野田あかりが施した特製コーティングのおかげで、爆炎によるオーバーヒートや機体の致命的な損壊こそ免れていた。しかし、ムカデの鉄の顎に噛み砕かれ、削られた船底の抵抗は、致命的な速度低下を招いている。
「くっ……重い、重すぎる! 黄金マブイが、ムカデから流れ出た毒気に当てられて……出力が、安定しない……!」
誠の瞳からはかつての輝きが失われ、必死に前を睨むものの、忠志の背中は遠のくばかり。
膝の上のシロも、黄金の毛並みを逆立てながら「フゴォ……」と悔しげに喉を鳴らし、主人の無念を噛み締めていた。犬の直感は理解していた。今、自分たちの前に立ちふさがっているのは、単なるレーサーではなく、数百年の歴史という名の「呪い」であることを。
「1着は大宮忠志! 2着、西野貴志! そして3着……! 下関の英雄、速水誠、ここで痛恨の敗北!! 万衆衆魂祭からの連勝記録が、ついに途絶えたぁぁ!!」
ゴールを駆け抜けた忠志は、過負荷により鼻から流れる血を無造作に拭いながら、ピットに戻ってきた。
機体から降りた彼は、疲弊しきった誠を氷のような眼差しで見下ろした。
「速水くん。これが『家系』の重みです。個人の才能や、拾い物の犬の力だけで、大宮橋右衛門が遺したこの深い闇を超えられると思わないでください。……三冠など、片腹痛い」
誠は何も言い返せなかった。握りしめた拳が、悔しさで震える。
からくり競艇公式YouTubeチャンネル『カササギ』のPVは、この衝撃的な結末を受け、瞬く間に8億2,000万を突破。掲示板には「誠、ついに限界か」「三冠ロード終焉」といった絶望的なコメントが溢れかえった。
4. ピットの絶望と、闇に立つ影
「師匠、ごめんっす……。あかりのコーティング、もっと厚くしておけば……っ」
ピットに戻るなり、あかりが泣きそうな顔で39号機に取り付いた。
しかし、彼女の診断は過酷なものだった。
「ムカデの噛み跡から、嫌な色のオイルが漏れてるっす。これ、中のギアボックスが直接汚染されてるっす……。普通の修理じゃ、明日までに間に合わないかもしれないっす……!」
誠はあかりの肩を優しく叩くことしかできなかった。
自らの慢心か、それとも敵の執念が上回ったのか。尼崎の空を覆う夕闇が、誠の未来を暗示しているかのようだった。
その時である。
ピットの隅で、あおいの愛犬・ポメラニアンのヘラが、何かの気配を察知して激しく吠え始めた。
「キャン、キャン!!(来ないでっ、変な匂いがするっ!!)」
あおいがヘラを抱き上げ、視線の先を追う。
そこには、カクテル光線の届かない暗がりに、古めかしい袴を纏い、片手に不気味な「虫籠」を下げた老人が立っていた。
「……黄金を失い、泥にまみれたか。持たざる者の龍よ」
その老人の影からは、尼崎の水面を震わせた大ムカデさえもが平伏するような、圧倒的な「原初の虫」の威圧感が立ち昇っていた。
大宮家の真の黒幕か、それとも――。
敗北の淵に立たされた誠。
壊れた39号機。
そして、闇から現れた謎の人物。
三冠ロードを懸けた尼崎の戦いは、今、最も過酷な夜を迎えようとしていた。
「シロ……まだ、終わりじゃないよな?」
(フゴッ!!)
シロは闇の老人を睨みつけ、再びその瞳に、小さな、しかし消えない黄金の火を灯した。




