三冠の残照、海水の洗礼
2030年8月下旬。『SG大宮橋右衛門杯』での劇的な三冠達成、そして守屋あおいからの全速プロポーズという衝撃的な幕切れから数週間。日本中が新王者の誕生と狂騒曲に沸く中、俺が次なる戦いの場として降り立ったのは、長崎県――ボートレース発祥の地、大村競艇場であった。
眼前に広がる大村湾。それは一見、鏡のように穏やかで、南国の陽光を浴びてキラキラと輝いている。しかし、その美しさの裏には、真水のレース場にはない特有の牙が隠されていた。海水の濃度が高く、機体を押し上げる浮力が極めて強い。さらに夕刻には、大村特有の海風が山を越えて吹き抜け、繊細なマブイの出力を狂わせる。
俺が挑むのは、歴史と権威を誇る『SG・モーターボート記念杯』。もしこのタイトルを手にすれば、同一年度における「年間四冠」という、前人未到の絶対なる称号をその手にすることになる。
「誠くん、聞こえる? 私たちが留守の間、大村で変な女の人に鼻の下伸ばしてたら、帰ってきた瞬間に機体ごと絶対零度で凍らせるからね!」
無線から響くのは、現在別会場で開催中のレディースクラシックに参戦している、最愛の婚約者・守屋あおいの声だ。彼女の声はいつも以上に鋭く、そしてどこか誇らしげでもあった。
「あおい……わかっているよ。浮気なんてする暇もないくらい、ここの水面はやばい。俺の黄金がうまく噛み合わないんだ」
さらに、その通信に割り込んできたのは、今回はメカニックではなく一人のレーサーとしてレディースクラシックに出場している野田あかりだった。
「師匠! うちも今回は整備士じゃなくてライバルっす! 師匠が四冠獲るなら、うちも初タイトル獲って、水面をド派手なピンクに染めてやるっすよ! 整備の相談は……まあ、簡単に折れるような師匠じゃないと信じてるっす!」
二人の激励を受け、俺は苦笑いしながらヘルメットを被り直した。
今回は、あかりという最高のメカニックが傍にいない。俺は自分自身の手で、尼崎で金属性へと進化した39号機を、この大村の海水仕様に調整しなければならなかった。
「スー、ここは大村湾だ。海水だから真水よりも機体が浮きやすい。パーツの重みを、単なる重荷じゃなく、水面に食らいつくための錨としてどう活かすかが鍵になりそうだ」
足元で潮風を嗅いでいたスーが「フゴッ!」と短く応えるように鳴いた。スーの黄金の毛並みが、長崎の強い日差しを受けて眩しく反射していた。
しかし、大村のピットには、三冠王者を「余所者」として冷遇する、圧倒的な威圧感が漂っていた。地元・長崎が誇る最強の刺客たちが、静かに、しかし確実に獲物を狙う龍のように待ち構えていたからだ。
「速水くん。三冠、おめでとう。山口の若造がよくぞここまで辿り着いた」
声をかけてきたのは、長崎支部の重鎮、新武友哉だった。彼の背後には、大村湾の底に眠ると言われる重厚なる龍のマブイが圧倒的な威圧感と共に立ち昇り、視覚化されたプレッシャーとなって俺に襲いかかる。
「だが、ここは大村……ボートレースの神域だ。尼崎の虫を払った程度の黄金を振り回して勝てるほど、この海の潮目は優しくなかバイ。そん黄金、大村の海に沈めてやるけんね」
重鎮が指差す先、大村湾の海面が風もないのに不気味に波立っていた。長崎のレーサーたちは、海水の浮力とマブイを同期させ、水面と一体化する特殊な旋回を体得している。それは、いかに高いマブイ出力を持っていても、海を知らぬ者には決して真似のできない芸当だった。
そして迎えた初戦、第1レース。
大村特有の1コース絶対有利の神話に基づき、俺はインコースに陣取った。しかし、大時計がゼロを指し、スリットを駆け抜けた瞬間、俺はかつてない異変に襲われた。
「なっ……何だ、これ!? スロットルが空回りしている!!」
俺が黄金マブイを全開に放出した瞬間、39号機から放たれたエネルギーが、高濃度の海水と最悪の干渉を起こしたのだ。海水に含まれるミネラル分がマブイの伝導率を異常に狂わせ、俺の黄金マブイが機体の推進力にならず、水面へと漏れ出して拡散していく。
「機体のグリップが効かない! 水面を掴めない!!」
大村湾の強い浮力が39号機を海面から浮き上がらせ、金属性パーツの重みが仇となって機体は不安定に跳ね回る。俺の代名詞である全速旋回を試みるも、ボートは水面を滑る石のように場外方向へと大きく膨らんでしまった。
そこへ、地元の龍のマブイを纏った長崎勢のボートが、水面を這うような驚異的な低空旋回で、俺の空いた懐を鋭く突き刺した。
「……これが、大村の海バイ。黄金など、海に溶ければただの砂たい!」
【からくり競艇公式YouTube『カササギ』Template更新】
> 【四冠への壁】三冠王者・速水誠、大村の浮力に大苦戦! 黄金マブイが海に溶け出し、まさかの初戦大敗! ネット上は王者の失速にパニック寸前の大炎上!!
ピットに戻った俺は、ひどく打ちのめされていた。
いつもならここで「師匠、それはですね……」とあかりがデータを持ってきてくれる。あおいが「誠くんなら大丈夫!」と背中を叩いてくれる。だが、今の自分は一人だ。
「あかりもあおいもいない時に、こんなトラブルか……。だが、いつまでも甘えてるわけにはいかない」
俺はスパナを握り、海水に濡れた39号機のエンジンを睨みつけた。スーが俺の足元で、不安そうに俺の顔を見上げている。
漏れ出すマブイ、制御できない浮力、そして山口の余所者を阻む長崎勢の包囲網。三冠王という安っぽい慢心は、大村の最初の波飛沫であっさりと消し飛ばされた。四冠への道は、開始早々に暗黒の深淵へと沈み込もうとしている。
頼れる者のいないピットの片隅で、俺はただ、大村の重い潮風に吹かれながら、激しい焦燥と共に愛機を見つめ続けるしかなかった。黄金の王の、孤独で、しかし最も過酷な自分自身を超えるための戦いが、今、最悪の形で幕を開けた。




