第16話:二人の虎、吠える
2028年1月25日。
新しい年が明け、下関競艇場には凛とした冬の空気が張り詰めていた。関門海峡から吹き抜ける潮風は、頬を刺すほどに冷たい。しかし、その日の下関ピット裏だけは、まるで真夏の太陽が直撃したかのような、異常な熱気に包まれていた。
「だーかーら! 西野さん、あんたの教え方は雑すぎっとよ! 誠くんみたいな繊細な子は、ウチの『愛の旋回』で、もっとこう、機体と心ば通わせる練習から始めるのが一番ばい!」
アロハシャツの上に無理やりジャンパーを羽織った大分支部のエース、大峰幸太郎が、今にも泣き出しそうな顔で叫んでいる。その背後からは、83,000という圧倒的なマブイが黄金色の霧となって立ち上り、周囲の酸素を燃焼させていた。
「何ば言いよるか、大峰さん! 誠に必要なのは、外からまとめて飲み込む『強襲の魂』たい! 4カドの極意ば教えられるのは、この俺しかおらんと! ちまちま小回りしよったら、SGの舞台じゃ食われるだけばい!」
対するは、福岡のエンターテイナー・西野貴志。26,000のマブイがパチパチと爆発的な放電を見せ、彼の周囲には小さな竜巻のような気流が発生している。二人のトップレーサーがぶつけ合う、合計10万を超えるマブイ圧。それは局所的な低気圧を生み出し、真冬のピットに揺らめく陽炎を立たせていた。
この日、下関には若手育成の名目で九州の二大巨頭が招かれていた。しかし、蓋を開けてみれば、速水誠という稀有な才能を巡る「師匠争奪戦」へと発展していたのである。
「あの……お二人とも、落ち着いてください。俺は山口支部ですし、一貴さんや菜奈さんからも教わっていますから、自分なりに……」
誠が恐る恐る仲裁に入ろうとするが、二人の巨大なマブイの壁に物理的に跳ね返され、一歩も近づくことができない。
「誠くんは黙っとき! これは、あんたの将来を想う大人たちの『愛の対論』たい!」(大峰)
「そうばい! 誠、お前はどっちの旋回がシビれたか、はっきり言えばよかと!」(西野)
そのカオスな光景を、山口支部の新入りである野田あかりは、最新型の通信端末で動画に収めていた。
「誠先輩、これマジでウケるんだけど! 九州のトップ二人が先輩の取り合いとか、エモすぎて死ぬ。ハッシュタグ、山口の星、師匠ガチャ、マブイ圧やばい、でバズり確定っしょ!」
一方で、長崎支部の新鋭、神田真琴は、誠の右腕にしっかりとしがみつきながら主張を曲げない。
「誠さんは島原でも大活躍したんですし、私と同じ長崎支部に来るべきですよ。大村のほうが美味しいものがいっぱいありますから!」
「……ちょっと、あんたたち。そこ、どきなさいよ」
背後から、凍てつくような低い声が響いた。守屋あおいが、プロペラ調整用のハンマーをミシミシと鳴らしながら、鬼のような形相で立っていた。彼女のマブイは嫉妬と不機嫌さで、どす黒い桃色に変色している。
「誠くんが山口の人間だって言ってるでしょ! 支部を超えた不当な勧誘はルール違反よ!」
ピット裏のテンションが限界を迎え、大峰と西野が今にも実力行使に出ようとした、その時であった。誠の足元で、これまで騒ぎを完全に無視して昼寝を決め込んでいたペキニーズのシロが、ゆっくりと立ち上がった。
シロは大きくあくびを一つすると、二人の巨頭を見上げ、その小さな胸を大きく膨らませた。
「……バウッ!!」
その鳴き声は、物理的な音波を超越していた。シロの体から放たれた純白の光が、ピット裏を一瞬で飲み込んだ。それは、あらゆる邪気や過剰なエネルギーを無効化する、神獣による「絶対浄化」の波動であった。パチパチと鳴っていた西野の放電が消え、大峰を包んでいた黄金の霧が霧散する。陽炎は消え去り、そこには本来の1月の、肌を刺すような冷気が戻ってきた。
「「…………」」
大峰も西野も、まるで魔法が解けたように呆然と立ち尽くした。
「およよ……シロちゃんに怒られてしもうたね。ウチ、大人げなかったばい……」
大峰がシュンとして肩を落とす。
「ああ。俺たち、誠の才能に惚れ込みすぎて、大人の余裕がなかばい。面目なか……」
西野もポリポリと頭を掻きながら、マブイの放出を止めた。
静まり返ったピットで、これまで一言も発さずにエンジンの整備を続けていた瓜生俊樹が、おもむろに立ち上がった。彼は無機質な表情のまま、誠の隣に立つ。
「……大峰さん、西野さん。誠を高く評価してくださるのは光栄です。ですが、誠は誰の弟子にもなりません」
瓜生の言葉は、冷たくも力強かった。マブイ0の彼から発せられる言葉は、マブイの熱に頼らない、冷徹な真実として響く。
「俺と誠で、新しい山口の時代を作る。……そうだな、誠?」
誠は、一瞬だけあおいや仲間たちの顔を見回し、最後に足元で誇らしげに胸を張るシロを見つめた。そして、大峰と西野に向き直り、深く頭を下げた。
「大峰さん、西野さん。お二人の技術は、俺にとって目指すべき最高峰です。でも、俺には俺の、この1,000のマブイにしかできない走りがあるはずなんです」
誠は自分の拳を強く握りしめた。
「大峰さんの愛で機体と寄り添い、西野さんの強襲で隙を突く。そのすべてを吸収して、俺は俺自身の『山口の旋回』を作り上げます。だから……見ていてください。弟子としてではなく、ライバルとして、いつか同じSGの優勝戦で戦える日まで」
その言葉を聞いた大峰の目から、今度は本当に涙が零れ落ちた。
「およよ……誠くん、立派になって……! ウチ、もう感動して前が見えんばい!」
「ハハハ! 言うたね誠! なら、次に水面で会う時は容赦せんばい! 俺の捲り差しで、その青臭い志ごと飲み込んでやるけん!」
西野も豪快に笑い、誠の背中を力いっぱい叩いた。
ピットの騒動が収まり、九州の巨頭たちが去っていく。
あおいは、まだ少し不機嫌そうにハンマーを片付けながら、「……ふん、あんなこと言っちゃって。負けたら承知しないからね」と呟いた。だが、その耳たぶは少し赤くなっていた。誠は、再び39号機のエンジンの前に座った。
「俊樹、整備の続きをやろう。大峰さんの言ってた『愛』のセッティング、試してみたいんだ」
「……ああ。俺も、西野さんの加速理論をマブイ0の流体力学で再構築してみる。誠、お前の1,000マブイなら、その熱をロスなく伝えられるはずだ」
二人の若きレーサー、そして彼らを見守る仲間たち。山口支部の39号機は、かつてないほど多種多様な魂を飲み込み、今まさに進化の時を迎えようとしていた。
シロが再び誠の足元で丸くなり、満足げに目を閉じる。
関門海峡の波音は、二人の虎が吠えた後の静寂を優しく包み込んでいた。極寒の冬はまだ続く。しかし、彼らのからくり機艇が刻む鼓動は、もうすぐそこにまで迫っている春の足音よりも、遥かに熱く、力強かった。




