黒き羽音、過負荷の逆流
2030年8月1日。兵庫県尼崎市、尼崎競艇場。
『大宮橋右衛門杯』予選第6レースのピットアウトが宣言された瞬間、尼崎の空気が変質した。
本来なら夏の太陽が照りつける爽やかな静水面。しかし、観客たちが目にしたのは、水面から立ち昇る薄紫色の腐食毒の霧と、鼓膜の奥を針で刺すような、不快な高周波のうねりだった。
「……来るぞ」
俺は39号機のカウルを固く握りしめていた。
1号艇には、俺の同期であり、プロデビュー時からの無二の相棒として並び立つ「マブイ0」の男、瓜生俊樹。そして3号艇には、本大会の主であり、からくり虫技術の正統後継者、大宮忠志。
ピットを離れた瞬間から、大宮忠志の機体からは、まるで生き物のように蠢く黒いオーラが溢れ出していた。それは大宮家が数百年にわたり秘匿してきた、虫とマブイの禁忌の融合体である。
「最終的な進入は123/456の枠なり! だが、3号艇・大宮忠志の機体から、正体不明の飛翔体が無数に放出されています!!」
実況が絶叫する中、スリットラインを通過した直後、忠志の3号艇の側面パネルが開き、黒い雲のような群れが飛び出した。
奥義――『寄生蜂・群れ』!!
「フゴッ!? フゴォォッ!!」
足元のスーが空を見上げて激しく吠えた。スーの視界には、一匹一匹が精密なからくりで制御された、全長わずか数センチの鋼鉄の蜂が、俺の機体を目がけて殺到する光景が映っていた。
「……っ、何だ、これは!?」
俺の39号機が加速しようとした刹那、数十匹の寄生蜂が排気口、関節部、さらにはマブイ石の装甲に吸い付いた。蜂たちの腹部から展開された超振動ドリルが、39号機の堅牢な装甲を容易く貫通する。
「なっ……加速が鈍る! マブイが……体の中から直接、外に漏れ出しているのか!!」
俺は戦慄した。この蜂たちは、ただ機体を傷つけるのではない。俺とスーが練り上げた黄金のマブイを直接吸引し、外部へ放出、あるいは忠志の機体へと転送するエネルギーの吸血鬼だったのだ。機体のメーターが急激に下がり、黄金の輝きが煤けた色に変色していく。
「……させん。誠、俺の背後につけ! 風と虫は俺が引き受ける!」
1号艇の瓜生俊樹が、自身の機体からマブイゼロの特性を活かした無色の衝撃波を放った。感情も属性も持たない純粋な物理衝撃が、俺に取り付こうとする第二波、第三波の寄生蜂を粉砕し、尼崎の水面へと叩き落としていく。
しかし、忠志はその光景を、複眼のようなゴーグルの奥で冷ややかに見つめていた。
「瓜生さん。あなたは相変わらずお優しい。だが、その仲間意識という脆弱なマブイこそが、絶好の隙となるのですよ。……『騒蝉』、発動」
キィィィィィィィィィィィン!!!!!
突如、競艇場全体を揺らすほどの殺人的な高周波が鳴り響いた。数千匹のセミが同時に鳴く声をからくり技術で増幅した、精神汚染兵器だ。
俺と瓜生のインカムには、鼓膜を突き破らんばかりの激しいノイズが走り、ピットにいる野田あかりからの指示は完全に遮断された。さらに、俺の脳内にある異常振動症の残滓が、この音響攻撃に最悪の反応を起こす。
「ぐ、あああぁっ!! 耳鳴りが……平衡感覚が……!!」
俺の視界が左右に激しく揺れ、真っ直ぐ走ることさえ困難になる。機体は制御を失い、あわや転覆という角度まで傾いた。
「誠!! シャキッとするのよ!!」
ピットでモニターを掴み、あおいが悲鳴を上げる。だが、俺はただ震えているだけではなかった。
「耳鳴りなんて……あおいの、三時間コースの説教に比べれば……ただの羽音みたいなもんだ!!」
俺は意識が遠のく中、逆に吸い取られているという接続状態を逆手に取った。俺はスーとマブイを直結させ、吸い取られるスピードを上回る超高出力の黄金マブイを、自ら蜂の針へと叩き込んだのだ。
「吸いたいなら、全部持っていけ!! 黄金の過負荷だ!!」
俺から放たれた、密度10,000%を超える純金のマブイが、蜂の回路を逆流する。
「な、何を……!? 自滅する気か!?」
忠志が驚愕した次の瞬間、俺の機体に群がっていた寄生蜂が、許容量を超えた黄金の輝きに耐えきれず、花火のように次々と爆発四散した。拘束から解き放たれた39号機は、失ったエネルギーを取り戻すように、黄金の火花を散らしながらチルト3.5で空へと跳ね上がった!
「速水誠、空へ飛んだ!! 蜂を爆破し、絶望的な状況からスカイ・ハイを強行!!」
【からくり競艇公式YouTube『カササギ』Template更新】
> 【空中の要塞】大宮忠志、盾甲虫で誠のスカイ・ハイを完全ブロック! 史上初、黄金のマブイが物理的に阻まれる瞬間、世界中のタイムラインが完全パニック!!
しかし、忠志の口角が吊り上がる。
「逃がしませんよ。大宮の領域からは、鳥一羽、羽ばたくことは許されない。……『盾甲虫』、展開!」
忠志の機体から、今度は巨大な円盤状の物体が数枚、空中へと射出された。それは、複数のからくり虫が物理的に連結し、ダイヤモンド並の硬度を持つ生体装甲を形成したものだ。
俺の目の前に、瞬時にして巨大な黒い壁が形成される。空中に作られた、逃げ場のない要塞。俺のスカイ・ハイの直撃軌道上に、絶対防壁が立ちはだかった。
「どけぇぇぇ!!」
「無駄です。その輝き、我らが標本の一部としていただきましょう!」
ドォォォォン!!
俺の黄金の機体と、忠志の黒い盾甲虫が空中で真正面から激突。黄金の粒子と、黒い甲殻の破片が尼崎の夜空に舞い散る。
39号機は激しい衝撃で完全にバランスを崩し、推進力を失ったまま、錐揉み状態で尼崎の水面へと真っ逆さまに叩きつけられそうになる!
【第6R:1マーク中間状況】
| 選手 | 状況 | 戦況 |
| 大宮 忠志 | 完全支配 | 盾甲虫で誠を弾き飛ばし、余裕のトップ旋回。 |
| 瓜生 俊樹 | 奮闘中 | 誠を庇うために受けたダメージで、機体が一部損壊。 |
| 速水 誠 | 操縦不能 | 空中で壁に激突し、姿勢を喪失。水面へ真っ逆さま。 |
「誠くん!!」
ピットであおいが叫ぶ。その冷気のマブイが、俺を助けようと無意識に漏れ出す。
だが、水面に激突しようとする絶望のカウントダウンのなか、俺の瞳の奥、そして足元のスーの黄金の瞳には、まだ小さな、しかし決して消えない反撃の火が灯っていた。
「スー……まだ、翅はあるよな」
フゴッ!!
黄金の龍は、叩き落されてなお、その牙を隠していた。次話、誰も予想し得なかった二匹のパグの奇跡が、この尼崎の空を完全に支配する!




