蜘蛛の巣の水面、爆炎の消毒
2030年8月1日。兵庫県尼崎市。
「センタープール」の愛称で親しまれ、全国でも屈指の「静水面」を誇る尼崎競艇場は、例年であれば真夏の太陽を鏡のように跳ね返す、美しいブルーの水面を見せているはずだった。
しかし、この日、尼崎に集った万衆の観客が目にしたのは異様な光景であった。水面は鏡どころか、まるで半透明のゼリーを敷き詰めたかのように、粘り気を含んだ鈍い光を放っている。カササギの超高精度カメラが捉えた水面下には、大宮橋右衛門の遺産である『マブイ糸』が、幾重にも重なる巨大な蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
この糸は、ボートのプロペラが発する微細な振動を検知すると、生き物のように足回りに絡みつき、機体の出力を吸い取る。不用意にターンマークへ飛び込めば、待っているのは落水ではなく、機体ごと蜘蛛の巣に吊るされる標本としての死だ。
「……三冠への第一歩が、この地獄か」
ピットで39号機の調整を続ける俺は、額の汗を拭いながら、水面に漂う不気味な静寂を睨みつけていた。
「大宮橋右衛門杯、予選第1レース! 進入は枠なり、123/456! 注目はなんと言っても1号艇、『福岡ポンコツ会』会長、西野貴志!! 尼崎の静寂を、その爆炎でどう焼き払うのか!?」
実況の声が響き渡る中、1号艇の西野貴志はヘルメットの中で不敵な笑みを浮かべていた。彼の視界には、水面下に蠢く糸蜘蛛たちのからくり回路が、熱感知センサーを通じてはっきりと映し出されている。
「……糸だの罠だの、小癪な真似は好かんバイ。虫ケラ共の巣窟ごと、まとめて消毒してやるバイ!!」
大時計の針がゼロを指すと同時に、西野の機体から周囲の気温を一気に5度上昇させるほどの凄まじい熱量が発生した。
奥義――『爆炎・業火絨毯』!!
西野が1マークへ差し掛かると同時に、ボートの底面にある特殊噴射口から、超高密度の爆炎属性マブイが水面へと叩きつけられた。ジュッ、という凄まじい蒸発音と共に、尼崎の静水面が沸騰し始める。水面下に潜んでいたマブイ糸は、鋼鉄をも溶かす西野の熱量に耐えきれず、一瞬にして焼き切られ、白い灰となって霧散していった。
「なっ、糸が……跡形もなく消えた!? 西野、爆炎の力で無理やり航路をこじ開けたぁぁ!!」
通常のレーサーであれば、糸の抵抗を恐れてターンの初動を慎重にする場面。しかし、西野は全速。焼き切られた糸の残骸を、沸騰した水ごと蹴散らし、最短距離を豪快にイン逃げ。2号艇、3号艇の選手たちが、西野の引き波に残った焼き切れなかった端糸にプロペラを足を取られ、機体のバランスを崩して大きく失速するのを尻目に、西野の機体だけが異次元の加速を見せる。
「ハッハッハ! 虫の巣なんぞ、焚き火の燃料にもならんバイ!」
西野はそのまま独走状態でゴール。1Rから、からくり虫の仕掛けを力技で粉砕するという、福岡支部の荒々しさを見せつけた。
ピットに戻ってきた西野は、ボートから降りるなり、待機していた俺に向かって親指を立て、真っ白な歯を見せて吠えた。
「誠、見たかバイ! これが福岡の、そして俺のやり方バイ! 搦め手なんぞ、全て焼き尽くせば解決たい!」
「西野さん、相変わらず無茶苦茶だな……。でも、あかり、今の見たか?」
俺は西野の走りをモニターで何度もスロー再生しながら、メカニックの野田あかりに問いかけた。
「……見てたっすよ、師匠。西野さんの爆炎、確かに糸は焼き切ったっすけど……焼けた糸が溶けて、水が紫色に変質してるっす。あれ、多分『腐食毒』のガスっすよ。次のレースからは、機体の吸気系に影響が出るかもしれないっす」
あかりの指摘通り、西野が焼き払った後の水面からは、薄紫色の不気味な蒸気が立ち昇っていた。大宮橋右衛門の遺産は、単なる物理的な糸ではない。焼かれれば毒を撒き散らす、呪いのような防衛機構を備えていたのだ。
足元にいたパグのスーは、西野の残り香を嗅ぎ、不快そうに鼻を「フゴッ」と鳴らした。スーの黄金のマブイが、周囲に漂う微細な毒素を浄化するように淡く輝く。
スーの瞳は、ピットの最深部、ひときわ暗いブースで複眼のようなゴーグルを磨き続けている男――大宮家の直系、大宮忠志を捉えていた。
【からくり競艇公式YouTube『カササギ』Template更新】
> 【爆炎の開幕】西野貴志、からくり虫の罠を焼き払い完勝! しかし、焼かれた糸から謎の『腐食毒』が発生!? 世界中のタイムラインが、この毒と炎の尼崎に完全凝視!!
「次は、俺の番だ……!」
俺はあかりが対ジャミング装甲を施してくれた39号機のカウルを優しく叩いた。
予選第6レース。そこには、尼崎の主である大宮家の末裔、大宮忠志が出走する。西野が焼き払ったことで、逆に活性化した水面下のマブイ糸。大宮忠志は、自らその糸を操り、俺の黄金マブイを絡め取ろうと待ち構えているはずだ。
「あおい、準備はいいか?」
「……いつでも。誠の羽を汚す虫は、私の氷で一匹残らず凍土に沈める」
あおいの冷気が、西野の爆炎で上がったピットの温度を再び氷点下へと引き戻す。黄金の龍と、氷の女王。そして、闇に潜む蜘蛛の王。
「予選第6レース、ピットアウトです!!」
係員の合図がピットに響き渡る。
「スー……行くぞ!」
フゴッ!!
スーが鋭く吠え、俺は不敵に笑ってアクセルを握りしめた。活性化した腐食毒の白煙が漂う水面へと、俺たちの黄金のボートが滑り出す。三冠への本当の死闘が、この第6レースから爆音と共に幕を開けるんだ!




