第156話:絶対王者の教育、爆走する噴煙 ― 準優勝戦11R ―
2030年5月12日、午後4時20分。岡山・備前競艇場。
「万衆衆魂祭」はついに準優勝戦の日を迎え、水面には黄金色を帯び始めた西日が、不気味なほど美しく反射していた。
前夜、ピットを揺るがした二つの「デート申請」。
大阪の女王・鎌倉明奈による岡野銀太への略奪的な誘い、そして山口の女王・守屋あおいによる速水誠へのプライドを賭けた逆指名。その色恋の猛嵐は、SNSを通じて全世界に拡散され、公式YouTube『カササギ』のPVは、レース開始前だというのに3億5,000万という天文学的な数字を叩き出していた。
観客席は、若きレーサーたちの恋路の行方に一喜一憂する野次と歓声で溢れ返っている。
しかし、その浮ついた「お祭り騒ぎ」の空気を、たった一人の男から放たれる圧倒的な「殺気」が凍りつかせた。
佐賀の絶対王者、大峰幸太郎である。
「……誠くん。あんた、自分が今どこにおるか分かっとるね?」
ピットの待機室、1号艇の誠の前に立ち塞がった大峰は、愛犬の「ムネリン」を抱きしめ、いつもの温和な表情を完全に消し去っていた。彼の背後からは、佐賀の有明海が育んだ重厚な漆黒のマブイが、陽炎のように立ち昇っている。
「恋も結構、青春も結構。ばってん、この水面の上は、魂と魂を削り合う男と男の真剣勝負たい。浮ついた『甘いマブイ』ば撒き散らしよったら、俺の噴煙で窒息して、二度と浮き上がれんくなるバイ!」
「お、大峰さん……っ」
誠は、大峰の眼光に射すくめられ、言葉を失った。
昨夜のあおいからの誘い以来、誠の心拍数は異常な数値を刻み続けていた。異常振動症の影響で過敏になった彼の感覚は、あおいの「真っ赤な顔」と「デート」という言葉をリフレインし続け、集中力が分散していたのだ。
シロが「フゴッ!!(誠、シャキッとするっす! 死ぬ気でインを守るっすよ!)」と誠の太ももを爪が食い込むほど強く叩いたが、誠の魂はどこか地に足がついていない。
大峰は無言で誠の横を通り過ぎ、自身の4号艇へと乗り込んだ。
彼が選んだのは、今大会で最も攻撃的な選択。1コースでもなく、2コースでもない。カド受けの3コースさえも放棄した、「ダッシュ4カド」。
それは、誠を内側から一気に絞り潰し、その精神的な隙を物理的な質量で粉砕するという、王者による「教育」の宣告であった。
「準優勝戦、第11レース! 1番・誠、3連覇へ王手をかける逃げを見せるか!? しかし、進入は123/456の枠なりながら、4番・大峰幸太郎が、スタート展示以上の不気味なオーラを纏っています!!」
実況が絶叫し、大時計の針が動き出す。
1号艇、速水誠。彼は全力でレバーを握った。しかし、脳裏を掠める「デート」という甘美な響きが、指先にコンマ数秒の迷いを生じさせる。
対して、4号艇の大峰幸太郎。彼はその瞬間、無の境地にいた。
「……行くバイ、ムネリン。佐賀の底力ば見せんね」
ドォォォォォン!!!!!
備前の空気が爆ぜた。
大峰の4号艇が、完璧な「全速コンマ02」を叩き出したのだ。
1号艇の誠はコンマ12。その0.1秒の差は、1マークに到達する前に決定的な「距離の暴力」となって誠を襲った。
「……遅いバイ、誠くん!!」
大峰がレバーをさらにねじ込む。
大峰の機体から、佐賀支部伝統にして禁断の奥義が、噴火のように放出された。
『奥義:不知火噴煙』!!
漆黒のマブイが排気と共に爆発的に噴射され、備前の夕闇を人為的な夜へと変えていく。
誠の視界は一瞬で真っ黒な闇に覆われた。自慢の「スカイ・ハイ」を放つために必要な「空中の空間認識」さえも、大峰の重たい噴煙が物理的に遮断していく。
「大峰幸太郎、電光石火の絞り捲り!! 1番の誠、抵抗できない! 懐を完全に、文字通り完璧に潰したぁぁぁ!!」
カササギPVは、王者の圧倒的な「格の違い」を見せつける走りに狂喜乱舞し、3億8,000万を突破。
大峰は、あかりが心血を注いで調整した39号機のわずかな「迷い」という名の隙間に、漆黒の機体を力ずくでねじ込んだ。
誠の39号機は、大峰の強烈な引き波と、噴煙による気流の乱れに煽られ、水面を激しく叩きつけた。黄金のマブイを輝かせようとするが、大峰の漆黒がそれを包み込み、窒息させる。
「っ……シロ! 姿勢を制御できない! 水面が見えないぞ!!」
誠は泥水の中に沈み込み、1マークで無惨にも大きく外側へ弾き飛ばされた。大峰は振り返ることなく、最短距離を旋回し、バックストレッチで早々に5挺身以上の差をつける独走態勢に入った。
「【絶対王者の鉄槌】大峰幸太郎、誠を4カドから完全粉砕! 『恋のマブイ』を霧散させる圧倒的な走りで、優勝戦の絶好枠を確実にしたぁ!!」
大峰が遥か前方へ消えていく中、誠は絶望的な状況に立たされていた。
準優勝戦、優出(優勝戦進出)の切符は2着まで。
現在の大峰が1位確定として、残る1枠を、誠と愛知のベテラン・児玉大学が激しく争っている。
「ここで終われない……っ。あかりが直してくれて、あおいさんが……あおいさんが約束してくれた場所なんだ!!」
誠は必死に立て直そうとするが、大峰が残した「不知火の余波」は依然として水面を荒らし続けている。
児玉の機体が、老練な技術で誠の懐を狙い、泥沼のような競り合いに持ち込む。
ピットでは、あおいが自身の予選を終えた後、モニターを食い入るように見つめ、悲鳴のような声を上げていた。
「誠! 負けないで! あんな噴煙、あなたの黄金で吹き飛ばしなさい!! デートの約束、本気だったんだから! 忘れたら承知しないっすよ!!」
あおいが全力で放出した冷気のマブイが、ピットから水面へと流れ、大峰の残した熱い噴煙をわずかに冷却し、視界を確保しようとする。
その時、沈んでいた誠の瞳の中で、シロの咆哮が響いた。
「フゴォォォォォン!!(誠、前を見るな! 泥の『音』を聞け! 2着をもぎ取るのは、意地だ!)」
誠は目を閉じた。
視覚を捨て、大峰に潰されたプライドを燃料に変え、39号機のエンジンを極限まで唸らせる。
「……行くぞ。2番手でも、なんでも……俺は、あの約束を、守る!!」
黄金の龍は、泥の中から再び首をもたげた。
だが、その前を走る「佐賀の龍王」の背中は、かつてないほど高く、遠い。




