第14話:佐賀弁の旋風と4カドの誘惑
2027年8月16日。福岡市内、病院の屋上。
前日の騒々しい見舞いラッシュ、そして守屋あおいの「決死の告白未遂」から一夜が明けた。博多の空は、今日も痛いほどの青さに包まれている。速水誠は病院の屋上にあるベンチに腰を下ろし、三角巾で吊った左腕の重みを感じながら、遠く那珂川の河口付近、福岡競艇場がある方角を眺めていた。足元では、特例で屋上への同伴を許されたシロが、アスファルトの熱を避けるようにベンチの影で大人しく伏せている。
「……友達、か」
誠は、横西茜が調整し、そして自分を振り落とした39号機のエンジンの咆哮を思い出していた。あの時のエンジンは、自分を助ける翼ではなく、自分を拒絶する猛獣のようであった。1,000のマブイしか持たない自分にとって、身の丈に合わない過剰な力は、肉体を破壊する毒でしかなかったのか。
そんな沈思黙考に沈む誠の前に、二つの長い影が落ちた。
「……およよ、この子が噂の山口の若手ね。誠くん、災難やったねぇ。落水して入院なんて、ウチが代わりに泣いてあげっけんね」
ひっくり返るような、間の抜けた声が響く。誠が顔を上げると、そこには目が痛くなるほど派手な極彩色のアロハシャツを羽織った、40代前半ほどの男が立っていた。
男の名は、大分支部の絶対的エース、大峰幸太郎。マブイ総計83,000という、九州でも指折りの化け物じみた出力を持ちながら、若手時代はその繊細すぎる性格から「泣き虫レーサー」として名を馳せた男である。しかし、その内面に秘めた闘志は、九州のどの火山よりも熱いことで知られていた。
「師匠、泣きよる場合じゃなかですよ! こいつが西野さんの差しを差し返した速水です。……意外と、弱そうですね」
大峰の後ろで腕を組み、鋭い眼光で誠を射抜いているのは、弟子の宮地明。彼は大峰の技術を継承しつつ、独自の攻撃的なマブイ制御を武器に台頭してきた新鋭である。
「……大峰さん、それに宮地さん。どうしてここに」
誠が驚きとともに問いかけると、大峰は「よっこいしょ」と誠の隣に座り、負傷した左腕に触れるか触れないかの絶妙な距離で、そっと右手をかざした。
「……あんたのマブイ、今は『霧』みたいにバラバラばい。無理もなか、横西ちゃんが調整したエンジンが凄すぎたとね。1,000のコアに、10,000の出力を叩き込むなんて、軽トラにジェットエンジンば積むようなもんたい」
大峰の手のひらから、温かく、しかし圧倒的に濃密なマブイの波動が誠の腕に伝わってくる。それは熱いというより、体中の細胞が整列させられるような、不可思議な心地よさであった。
大峰は遠くの空を見つめながら、独特の佐賀弁を交えて語り始めた。
「誠くん、マブイは『量』じゃなか。どれだけ機体と『友達』になれるかたい。83,000あろうが、1,000あろうが、機体が嫌がっとるのに力でねじ伏せたら、いつか必ず裏切られる」
大峰のマブイは、推進力として放出されるのではなく、機体と自らの肉体の境界線を溶かすために使われていた。それが彼の必殺技、「最高峰旋回」。
通常のレーサーが遠心力に抗うために強大なマブイを消費するのに対し、大峰はマブイを機体への「慈しみ」として使い、艇の関節ひとつひとつの痛みを自分の痛みとして感じ取る。その結果、艇は一切の抵抗なく、水面に吸い込まれるように最短の弧を描くのである。
「あんたは『持たざる者』ばってん、それは同時に『余計なノイズに邪魔されん』ということでもある。1,000のマブイば、すべて機体への『愛』に変えてみんね。支配するんじゃなか、寄り添うとたい」
誠はその言葉に、雷に打たれたような衝撃を受けた。今まで自分は「少ないマブイをどう効率よく使うか」ばかりを考えていた。それは結局、マブイを燃料や道具としてしか見ていなかったということだ。
そこへ、誠に冷たい飲み物を買ってきた守屋あおいや横西茜、そして瓜生たちが戻ってきた。
「あっ、大峰さんに宮地さん!? 九州のトップ二人が何でこんなところに……」
あおいの驚きをよそに、大峰はヒラヒラと手を振りながら立ち上がった。
「お、あおいちゃん。誠くんの看病ね? 仲のよかねぇ。ウチらもお邪魔みたいやし、宮地、行こうか」
宮地は去り際、誠の鼻先に指を突きつけ、低い声で吐き捨てた。
「……チッ、次は水面で叩き潰してやっけん。覚悟しとけよ、速水。師匠はあんたを買っとるようだが、俺は認めん。格の違いば、その体に刻み込んでやる」
二人の嵐が去った後、屋上には再び静寂が戻った。あおいは真っ赤な顔をして、「な、何よ、あの大峰さん……変な勘違いして!」と独り言を言いながら、誠にスポーツ飲料を手渡した。
「……あおい。俺、わかった気がする」
「え?」
「俺、39号機を『支配』しようとしてたんだ。でも、あいつは俺の1,000のマブイでも、ずっと一緒に走ってくれてた。……横西がパワーを上げてくれたからこそ、あいつの悲鳴が聞こえたんだ」
誠は、包帯を巻いた右手をシロの背中に置き、その温もりを感じ取った。シロが浄化してくれたクリアな視界の中で、誠は次なるステップを見据えていた。
「退院したら、39号機をもう一度バラす。パワーを落とすんじゃない。1,000のマブイでも、あいつが全力で笑えるような、そんな調整を見つけるんだ」
大峰幸太郎が残していった「愛」という言葉。それは、力でねじ伏せるエリートたちの世界に対する、山口支部・速水誠の新たな挑戦状であった。
あおいは、誠の瞳に宿った以前よりも深く、そして静かな光を見て、胸の鼓動が早くなるのを感じた。
「……勝手にしなさいよ。でも、次は私も手加減しないから。……絶対に、あんたより先に第1マークを回ってやるんだから!」
福岡の夕日が、屋上の二人と一匹を黄金色に染め上げていく。
挫折を知り、強者の教えを請うた誠の「第2章」が、この潮風の中から始まろうとしていた。左腕の痛みはまだ消えない。しかし、彼の心の中にあった「1,000という数値への劣等感」は、今、確かな目的意識へと昇華されていた。
山口へ戻り、瓜生とともに再び整備台に向き合う日々が始まる。次に彼らが水面に現れる時、それはもはや「持たざる者」の足掻きではなく、万物と共鳴する「真のレーサー」としての産声となるはずだ。




