第136話:無のマブイ、静寂の衝撃 ― 瓜生俊樹、漆黒のサイレントターン ―
2030年4月22日、午前8時30分。
江戸川競艇場、『SG・マブイ開花賞』2日目の朝が明けた。
春の嵐が去った後の第1レース、水面は深い朝靄に包まれ、対岸のスタンドさえもおぼろげに霞んでいる。この幻想的で不気味な静寂の中に、山口支部の「持たざるダークホース」瓜生俊樹が登場した。
昨日の第11レース、速水誠と守屋あおいが宮地明に「ハナ差」で差し切られるという、山口支部にとって痛恨の敗北。ピットにはまだその重苦しい空気が霧と共に停滞していたが、瓜生俊樹だけは違っていた。
「第1レース、予選スタート! 1号艇は山口の瓜生俊樹。……実況席のモニター、故障でしょうか!? この男、機体からも肉体からも、マブイが全く検知されません! 測定不能、完全な『無』の領域。一体何を仕掛けるつもりなのか!?」
ピット離れ。誠の「黄金」やあおいの「氷」のような、派手なエフェクトは一切ない。
瓜生は膝の上にちょこんと座ったパグの**「パスタ」**を、指先で静かに、慈しむように撫でている。
誠がマブイを一滴も無駄にしない「省エネの王」なら、瓜生俊樹は存在そのものを背景に溶け込ませる「虚無の主」。
対戦相手は、愛知の遠江支部が誇る重量級の破壊神、東堂大地。
彼の4号艇は、通常の機体よりも一回り大きく見えるほど増設されたマブイ・ジェネレーターを積み、排気口からはどす黒いマブイの炎が吹き出している。
「おいおい、山口の幽霊さんよぉ! マブイも持たねぇスカスカの野郎が、この江戸川の上げ潮に耐えられると思ってんのか!? 桜の花びらと一緒に、海の底まで吹き飛ばしてやるぜ!」
東堂の機体が唸りを上げ、潮流を強引にねじ伏せて加速する。東堂の放つマブイ出力は40,000オーバー。外付けのブースターが火を噴き、1マークへ向けて暴力的なまでの突進を開始した。
これに対し、瓜生俊樹は無表情のまま、瞬き一つせずに中川の濁流を見つめていた。
「……パスタ。潮が、止まって見えるね」
パスタが「フガッ(見てろ)」と短く鼻を鳴らす。
スタートライン通過。東堂の重量級ダンプが、瓜生の1号艇を粉砕せんとインコースへ向かって斜めに切り込む。全観客が、瓜生の艇がバラバラに砕け散る光景を予感したその瞬間だった。
瓜生俊樹は、ステアリングを「操作」するのではなく、指先を「置く」ような究極の脱力を行った。
『奥義:サイレントターン』
その刹那、江戸川の水面から瓜生の艇の「物理的抵抗」が消失した。
通常のレーサーは、マブイを噴射して水面に杭を打ち、強引に機体を変角させる。だが、瓜生は逆に「無」になることで、押し寄せる上げ潮のエネルギー、吹き付ける春風の抵抗、さらには東堂が放つマブイの衝撃波までも、一切拒絶せず、そのまま自らの機体へと透過させた。
受け流すのではない。透過し、同化する。
水と風のエネルギーをそのまま旋回エネルギーへと置換した瓜生の機体は、音もなく、一筋の波紋さえ立てずに、垂直に近い角度で1マークを旋回した。
「なっ……消えた!? どこに行ったんだ!!」
東堂が渾身のダンプ(体当たり)を仕掛けた場所には、もはや瓜生の姿はなかった。
漆黒の機体は、まるで水面を滑る影。あるいは中川に映る月光のように、東堂のインを最短距離で、かつ完璧な静寂の中で通り抜けていた。
バックストレッチに出た瞬間、瓜生は既に3艇身以上の独走態勢を築いていた。
後方では、東堂が自分の放ったマブイの反動と江戸川のうねりに翻弄され、大きく失速している。
「(……誠。昨日の負け、気にするな。熱くなりすぎると、水面の『本当の形』が見えなくなる。俺がまず、山口の流れを戻しておく)」
瓜生は通信機すら通さず、心の中で呟いた。
パグのパスタが「フガフガ(当然の結果だ)」と得意げに鼻を鳴らし、瓜生の胸元で丸くなる。
ピットでは、昨日の敗北による苛立ちと焦燥で寝不足気味だった誠が、モニターを凝視したまま凍りついていた。
「……俊樹、お前……。昨日よりさらに『消えて』るっす……。潮の抵抗を、あいつはマブイじゃなくて『意識』で消しやがった……」
誠の隣で、あかりがタブレットの波形データを見て絶叫する。
「師匠! 見てっす! 瓜生さんの機体の振動係数、0.000……っす! 計測不能、バグじゃないなら、瓜生さんは今、江戸川そのものになってるっすよ!!」
4. カササギPV更新:一億一千万の沈黙
からくり競艇公式YouTube『カササギ』PV更新
> 【静寂の衝撃】瓜生俊樹、マブイネービラによる究極の『サイレントターン』! 1Rから会場が静まり返るほどの芸術的旋回! 累計PVは1億1,000万を突破!! この男、幽霊か神か!?
>
PVのコメント欄には「音が消えた」「動画がフリーズしたかと思った」という驚愕の書き込みが殺到する。派手なエフェクトがないからこそ際立つ、純粋な技術の極北。
【第1R:確定結果】
| 順位 | レーサー | 状態・マブイ残量 |
| 1着 | 瓜生 俊樹 | 完勝。マブイ消費量:0%。江戸川と同化した。 |
| 2着 | 東堂 大地 | 茫然自失。「幽霊に、殴る場所なんてなかったぜ……」。 |
| 3着 | 宮地 明 | 昨日の激走の反動か、瓜生の静寂に呑まれる。 |
ピットに戻ってきた瓜生。
誠は居ても立っても居られず、タラップまで駆け寄った。
「俊樹、ナイスレース! でも、どうやってあの上げ潮を無視したんだ? あの状況でチルトをいじらずに回るなんて、物理的に不可能なはず」
瓜生はヘルメットを脱ぎ、額の汗一つかいていない涼しげな顔で誠を見た。
「……誠。抗うから、潮に流されるんだ。潮と一緒に『無』になれば、江戸川は敵じゃない。道になる。……お前は『野性』で泥を掴もうとしすぎだ。次は『無』を覚えた方がいい」
瓜生は淡々と語ると、パスタを抱き上げ、いつもの隅っこの席へと戻っていった。
誠は、瓜生の消えていった背中を見つめ、自分の右手を握りしめる。
(野性の次は、無……。俺の『泥杭』に、俊樹の『静寂』が合わさったら……)
江戸川・マブイ開花賞、2日目。
「無」の男が呼び込んだ静かなる旋風が、昨日の敗北を過去のものへと押し流していくのだった。




