氷柱の衝突、ももの泥沼旋回
2030年5月11日、午前8時。
岡山・備前競艇場の二日目は、初日の殺気立った熱気とは打って変わり、瀬戸内から流れ込む不気味な薄い海霧に包まれていた。
水面近くには朝特有の重たく冷たい空気が沈殿している。昨夜の第十二レース特選――石田健太郎が展開した、他者の感覚を遮断する暗闇の領域の前に辛酸をなめた俺にとって、この二日目朝の第7レース予選特選は、単なる一戦ではない。
「……リベンジする。スー、俺の五感を研ぎ澄ませろ」
俺の一人称は、すでに飢えた修羅としての闘志へと遷移していた。俺は、愛弟子・野田あかりが昨夜、自らの体力をも削りながら執念でミリ単位の組み直しを施してくれた39号機『白銀黒影・改』のカウルに触れた。あかりは今、医務室で泥のように眠っている。その師匠として、無様なレースは残せない。
しかし、その対戦相手となる1号艇に立つ石田健太郎の周囲には、昨夜の剃刀のような威圧感は欠片もなかった。
「……ミヤビ、太陽光が強すぎる。マブイ充填効率が通常の10%までドロップしている……。身体が、重い……」
石田はコックピットに深く沈み込み、青白い顔でモニターを睨んでいた。彼の背後のモニターには、残酷な解析データが点滅している。夜間にのみマブイが超高周波活性化する特異体質の石田にとって、太陽光の直射と朝霧の乱反射は、感覚を狂わせる呪いそのものだった。愛機のパグ・ミヤビがバイタル低下を検知して紅い瞳を激しく明滅させ、エラーのアラート音をピット裏に響かせている。
「石田、朝からその惨めな姿は何だ。お前が暗闇に引きこもるなら、私の氷壁でそのまま水底へ沈めるだけよ」
2号艇の守屋あおいが、冷徹な一瞥と共にピットアウトの待機線についた。彼女の一人称にも、その眼差しにも、安易なラブコメのトーンなど微塵もない。隣に並ぶ大阪の女王・鎌倉明奈もまた、自身のペラを駆動させながら「あおいちゃん、朝から随分と尖ってるじゃない。私の旋回半径、計算に入れておきなさいよ」と、互いの水面を奪い合う勝負師の火花を散らしていた。
その頃、人間たちの喧騒の裏側、整備クレーンの巨大な影の中で、二匹の獣が密会を行っていた。パグのスーと、同じくパグのミヤビである。
「フゴ、フゴフゴッ!」
昨夜の闇の旋回、正直ビビったぞ。闇の深さが尋常じゃなかった。だが、あんたの飼い主、今マジでただの死体みたいになっているぞ。
スーが前脚でピットの方を指すと、ミヤビはパグ特有の深い皺を寄せてため息をついた。
「フガ、フガフガッ……」
そうなのよ。うちの健太郎はモーニングだとマブイの出力が通常の10%まで落ちるの。太陽光が天敵なのよ。だからスー……今回のレース、あなたの誠の『黄金の閃光』を、少しだけでいいから分かち合ってくれないかしら?
ミヤビが差し出したのは、備前の最高級「きびだんご型・高圧縮データパッチ」だった。スーの黄金の瞳が不敵に発光する。誠のリベンジは、石田が万全でなければ意味がない。スーはパッチデータを承認し、肉球を合わせて契約を交わした。
「第7レース、予選発走! 1号艇は朝の呪いに喘ぐ闇の帝王・石田! 2号艇にはリベンジに燃える山口の龍・速水誠! 帝王は白銀の輝きを前に、目覚めることができるか!?」
大時計の針が回転し、ゼロへと向かって冷徹に回転を始める。
1号艇の石田は、感覚を狂わせる霧のなかで覚束ない手つきでレバーを握っている。一方、3コースに持ち出した俺は、スーから伝わるかつてないほど高密度に圧縮された黄金の熱を右腕に感じていた。
「スー、救済じゃない。奴のデッドゾーンへ、白銀の閃光を叩き込むぞ!」
スタート! コンマ05。39号機が朝霧を切り裂く完璧なトップスタートを決める。
石田は完全に立ち遅れた。だが、俺は1マークの手前、石田の懐に向けて、自機から発生させた白銀の熱波を鋭角に照射した。それは石田の感覚を狂わせていた太陽光の乱反射を中和し、強制的に彼の闇のマブイを再起動させるための救済の光。
「……ま、眩しい……! ミヤビ、再起動だ!」
電磁ショックを受けた石田の闇のマブイが反転し、彼が強制覚醒を果たす。だが、その時にはすでに俺の39号機は、石田の再起動時間を計算に入れ、その頭上を遥かに越える高度へと跳躍を開始していた。
奥義――『スカイ・ハイ・エアターン』!!
あかりが調整したエンジンの超高回転を完璧に伝達し、39号機は1マークを抜けた瞬間には石田を5艇身以上突き放す、完全なる独走態勢を構築していた。
【第7R:最終結果】
| 順位 | レーサー | 状態 | 備考 |
| 1着 | 速水 誠 | 絶好調 | 朝の弱点なし。黄金マブイで場を支配。 |
| 2着 | 岡野 銀太 | 覚醒 | 鎌倉の前でいいところを見せたい一心で爆走。 |
| 3着 | 鎌倉 明奈 | 驚愕 | 「岡野……処理速度が上がっているわね」 |
| 4着 | 石田 健太郎 | 強制覚醒 | 「……白銀のショック療法か。手痛い貸しを作られたな」 |
ピットに戻ってきた俺は、冷徹な表情のまま艇を降りた。しかし、コクピットの足元を見つめ、微かに眉をひそめる。そこには、石田の機獣が落としたはずの、備前のデータを書き換えるためのチップが落ちていたのだ。
スーがそれを器用に口で拾い、誇らしげに俺へ差し出す。
「石田の相棒からのチップか。……フン、貸しを作ったつもりはない。奴が万全でなければ、この備前の『衆魂の祭り』を勝ち抜く算式にはならないからな」
俺はまだ知らない。これが備前の裏側で始まった「獣たちの外交」の第一歩であることを。そして、このチップが、後に控えるコアマブイ53,000の怪物・石神正広との決戦において、運命を左右する鍵となることを。
「あかり、39号機は完璧だった。……ゆっくり眠れ」
医務室で「ギャル工学……限界……」と寝言を言う弟子を見つめ、俺の瞳には、次戦の濁流を睨む白銀の闘志が静かに、しかし苛烈に燃え上がっていた。予選ロードは最高の形で締めくくられた。だが、次なる舞台――さらに密度を増した怪物の残滓が渦巻く予選最終12レースの死線が、この濁流の底で俺たちを待っている!




