第129話:震える指先、整備士の怒り ― 誠、ピット監禁メンテナンス!? ―
2030年4月1日、深夜23時。
江戸川競艇場のピットを照らす水銀燈の光は、勝負の後の残酷な静寂を強調していた。石田健太郎との死闘を終え、2着という結果を掴み取った速水誠であったが、その代償はあまりにも重く、目に見える形で彼の肉体を蝕んでいた。
「……っ、あれ。……力、入らない……」
39号機の操縦席から降りようとした誠の体が、がたがたと不自然に、そして激しく揺れた。自分の意思とは無関係に、筋肉が、神経が、魂そのものが痙攣を起こしている。タラップを掴もうとした右手が、まるで壊れた精密機械のように金属的なリズムで震え、空を掴んだ。
健吾に教わった『杭打ち』の強振。シロの野性を全開放した過負荷。江戸川の荒波を強引にねじ伏せた代償――それは、からくり競艇の歴史において最も恐れられる職業病の一つ、**「異常振動症」**であった。
「師匠! 動いちゃダメっす!!」
暗闇を切り裂くような声と共に、あかりが血相を変えて駆け寄る。彼女は誠の体を支えるように強引にストレッチャーへと押し倒すと、その右手を掴んだ。
誠の指先は、まるで氷点下の中で凍えるように、しかし熱を帯びたまま震え続けていた。あかりがマブイ計測機を腕に当てると、モニターには「臨界突破」を示す真っ赤な警告が点滅する。
「これ……完全な『異常振動症』の初期症状っす! 江戸川の泥にマブイを叩きつけすぎたせいで、神経系が逆流した泥のマブイ波動に汚染されてるっすよ! このままじゃ、二度とハンドルを握れなくなるっす!」
あかりの瞳に浮かぶのは、恐怖と、それを上回る怒りだ。整備士として、自分が作り上げた機体が、大切なパートナーであるレーサーを破壊しているという事実。それが彼女の矜持を激しく逆撫でしていた。
「ちょっと、あかり!? 何をするんだ……! 明日の予選最終日があるんだ、まだ調整を……!」
「うるさいっす! 黙って寝てろっす、この馬鹿師匠!!」
あかりの声がピットの屋根を震わせた。彼女は誠を予備機が置かれたピットの最奥、誰も立ち入りを許されない「特一級整備エリア」へと運び込んだ。
「整備士法第24条、整備士の権限による『選手拘束』を発動するっす! 今の誠さんは、機体の一部として修復対象っす!」
あかりは誠の腕に、マブイの乱れを中和するための冷却用高濃度グリスを容赦なく塗り込んだ。ひんやりとした感覚が走るが、その下で疼く神経の痛みは消えない。さらに、マブイのリークを防ぐための特殊な「絶縁拘束バンド」で、誠の体をストレッチャーに固定した。
(……おい誠、諦めろ。あかりがこのモードに入った時の整備士は、ダービーキングだろうが神様だろうが関係ねぇ。逆らえば、プロペラと一緒に磨り潰されるぜ)
シロもまた、泥にまみれた体を休めるように誠の足元で丸くなる。その金色の毛並みには、泥の黒いシミが深く刻まれていた。
誠が拘束され、強制的な眠りへと誘われるグリスの香りに包まれる中、あかりの「戦い」が始まった。
「マブイを叩きつけるのが江戸川の正解なら……。その反動を操縦者に伝えない、絶対的な『クッション』を作るしかないっす……」
あかりは防護ゴーグルを装着し、巨大な油圧レンチを振り回し始めた。
39号機の竜骨をさらに強化し、フレームの接合部に「空隙」を作る。そこに、ある禁断の理論を組み込もうとしていた。
「シロ、あんたのマブイを機体のサスペンションの一部として『外付け』するっすよ! あんたはただの機獣じゃない、誠さんの『緩衝材』になるっす!」
あかりの瞳には、かつてない技術者としての狂気が宿っていた。誠の神経を救いつつ、江戸川の泥をさらに深く掴む。それは、機艇の常識を覆す**「バイオ・メカニカル・サスペンション」**の構想であった。
シロのマブイを流体金属状に固定し、機体の関節部に配置する。これにより、泥を叩いた際の衝撃をシロが一度受け止め、浄化して誠に戻すという、生命維持装置に近いシステムだ。
からくり競艇公式YouTube『カササギ』PV更新
> 【緊急事態】速水誠、異常振動症によりドクターストップ!? あかりによる深夜の密室メンテナンスが続く。累計PVは1億3,000万! 奇跡の復活はあるのか!?
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電子の海は、この「沈黙」に熱狂した。
誠が明日、レースに出られるのか。それとも、このまま江戸川の藻屑と消えるのか。
掲示板には、あかりを応援する声、誠の無謀を責める声、そして、ただひたすらに「王の帰還」を待つ祈りが渦巻いていた。
深夜3時。江戸川の堤防の上には、依然として一人の影があった。
速水健吾。
彼は兄が囚われているピットの光を、無言で見つめていた。
「(兄貴……。壊れるか、超えるか、それとも機械に呑み込まれるか。江戸川は、甘くないぜ。……だが、俺が教えた『杭』は、自分の体を貫くためのもんじゃないはずだ)」
健吾は静かに自分の拳を握り、夜の闇に消えた。
【ピットの状況:深夜の緊急改修(午前4時)】
* 速水誠の状態: 冷却グリスと絶縁バンドにより強制安静。腕の痙攣は収まったが、指先の感覚は以前として鈍い。
* 機体改修(39号機・江戸川スペシャル):
* 剛性強化: 泥への激しい叩きつけに耐えるため、竜骨を強化重合合金で補強。
* 霊的緩衝材: シロのマブイを「流体金属」として関節部に配置。操縦者へのフィードバックを1/10に減衰。
* 過負荷制御: あかりが誠の腕の振動を検知し、強制的に出力をカットする安全装置(誠には内緒)。
朝の冷気が、江戸川の水面に白い霧を立ち昇らせる。
「モーニングレース」の開始まで、あと数時間。
あかりは油まみれの顔で、完成した39号機を愛おしそうに撫でた。
「……師匠。起きてるっすか。新しい『爪』と『盾』、用意できたっすよ」
誠はゆっくりと目を開けた。拘束された腕には、もはや震えはない。代わりに、恐ろしいほどの「静寂」が宿っていた。
「……ああ。行こう、あかり。江戸川の魔物を、今度こそ完全に黙らせる」
運命の予選最終日。
動かなくなった腕で、誠は再び、呪われたハンドルを握る。




