螺旋超高角旋回(スパイラル・ハイ・ターン)
二〇三〇年四月後半。ボートレース江戸川――最高峰の絶対聖域、SG『江戸川王座特区戦』初日・最終第十二レース予選特選。
満開のソメイヨシノが激しく吹き荒れる中川の水面は、もはや「河川」と呼べるような生緩い平穏さを木っ端微塵に喪失していた。カクテル光線と夜桜が混ざり合うカオスな光の中、六頭の野獣が白熱のスリットラインを駆け抜ける。
二コース、西野貴志(福岡)の駆る機体から放たれる狂暴な『爆炎マブイ』が東都の重い空気を真っ赤に灼き焦がし、三コースの一流ランカー・大峰幸太郎(佐賀)の放つ『海王の噴煙』が、視界のすべてを不気味な灰色へと塗りつぶしていく。九州勢の誇る「火」と「煙」の電算連携。それが、四コースのカド位置に据えた俺(誠)の進路を、内側から完璧にハメ殺しにきていた。
(チッ、誠! このまま突っ込めば、あの九州の泥の防壁に正面衝突して、カウルごとバラバラに大破しちまうぜ! かと言って、あおいの姉ちゃんがインコースから凍らせた『氷の道』を強引に通れば、あのドス黒い噴煙の過負荷サージに巻かれて、俺たちの精神回路が窒息しちまう!)
脳ニューロンを通じて、相棒のパグ機獣・スーが、警告の赤色をその瞳にギラつかせて激しく咆哮する。外枠からは西野の爆炎が俺の三十九号機を外側へ強引に押し出し、内側では大峰がマブイの煙幕を幾重にも再構築していく。視界ゼロ、退路ゼロ。
絶体絶命。しかし、俺のクリア・シルバーの瞳には、かつてないほどに冷徹で透明な「勝負師の飢え」が宿っていた。
「……スー、あかり、あおい。みんなの組んでくれた数式を、ここで全開放する。……最後は、俺の腕でこの濁流をブチ切る!!」
俺は一瞬の電算判断によって、ハイドロハンドルのチルトレバーを工学限界まで力ずくで叩き込んだ。
あかりが夜を徹して施してくれた流体金属サスペンションの質量と、昨夜の死闘の底で両腕に叩き込んだ、江戸川の泥の本当のオブジェクトデータを、俺は盲目的に信じ抜いていた。機首が強引に、かつ鋭角に大外の座標へと向く。西野と大峰が「誠は遠心力で外側に流れて自滅する」と電算予測したその刹那――俺の黒い機体は、真白き白銀の飛沫をハイドロエッジから爆発的に跳ね上げ、大外のデッドラインへと向かって異常なまでの金属加速を叩き出した。
(……ケッ、ハラは完全に括れてんじゃねぇか、誠! 泥をただ力で蹴るんじゃねぇ、この重い濁流を、空への『跳ね橋』へと反転ハックしやがれ!!!)
スーのパグ古代紋様が、クリア・シルバーの鋭利な輝きを放って爆発的に明滅! 俺のマブイパルスとスーの野性が、あかりの組んだバイオ・サスペンションを介して機体底面のスラスターへと一点集中する!
ドォォォォン!!!
東都の夜空を激しく震わせる流体破裂音。
俺の機体は江戸川の濁流をその足で力強く踏みつけ、それを巨大な「空中跳躍台」へと瞬時に変質させた。三十九号機のカウルは重力の数式から解放され、水面から完全に離脱。桜の花びらが激しく舞い散る江戸川の泥空へと、一頭の真白き白銀の龍が狂暴に舞い上がった!
【限界結合奥義:『奥義・螺旋超高角旋回』】
空中でメインプロペラが重い大気を激しく切り裂く。強烈なGが俺の五臓六腑を押し潰し、両腕の筋肉が引きち切れそうになる。だが、スーのマブイが強烈なジャイロ効果を生んで、機体の空中姿勢を力ずくでロック! 大外から大きく美しい放物線の弧を描き、水面に対して垂直に近い角度で、一マークの針の穴を回航していく!
これこそが、俺たちの誇る真の覚醒――『真・野性波切:大外白銀空中先マイ』だ!
『カササギ』の実況が絶叫し、画面の向こうの数億の魂が正気を失って沸き立つ。火と煙の包囲網を遥か上空の座標で跡形もなく粉砕し、俺は誰よりも早く、一マークの出口の直線を捉えた。
「墜ちろ……そこが、俺の往くべき最短の航跡だ!!!」
狂暴な白銀の水しぶきを上げて水面へ着水。その破壊的な衝撃さえも流体金属サスペンションが完璧に吸収し、即座に次なるトップエンド加速へと瞬時に変換された。
「誠師匠、本当に江戸川の空を飛んだっすよ!!!」
ピット裏で野田あかりが自分のことのように激しく飛び跳ね、塩田まなみも感嘆の息を漏らす。
一方、俺の常識外れの飛翔に目を奪われ、激しい競り合いの中で大きく失速した西野と大峰。その背後から、絶対零度の氷の刃が静かに、そして牙を剥いて迫っていた。
山口の新女王――守屋あおいだ。九州の怪物たちが驚愕したコンマ数秒の流体死角を透過スキャンし、凍りついた水面を剃刀の如き鋭さで切り裂く『天女の羽衣旋回』を発動。瞬く間に二番手の座標へと浮上してきた。
山口支部による圧倒的なワンツー体勢のまま突入した、最終周回。だが、SGの魔境は甘くない。後方のグリッドから、佐賀の若き機兵――宮地明がビーグル型のプロセッサー『毅』と共に狂暴なトップエンド加速で猛烈な追撃を開始。あおいの『天衣・改』のデッドスペースへと、容赦なく牙を剥いて飛び込んできた!
「あおい、危ない! 後ろから佐賀の若手がハめにきてるぞ!」
俺が通信回線で叫ぶ。だが、あおいは泥に汚れたバイザーの奥で、勝負師の不敵な笑みを静かに浮かべた。奴の『氷結マブイ』が爆発的に膨れ上がり、宮地の進路を一瞬でカチコチの鏡面へと変える。滑る。宮機のハイドロエッジが虚しく空転した。
「誠。お前は前だけを見て、そのハイドロレバーを握り締めていろ」
あおいの凛とした声が、通信機から俺の魂を震わせる。
「……この新女王の背中の座標を狙うなんて、その程度の出力じゃ、百年早いんだよ」




