黄金を裂く白銀(パイル・ドライブ)
二〇三〇年四月後半。ボートレース江戸川――SG『江戸川王座特区戦』初日、最終第十二レース予選特選。
空中から泥水をハックし、前人未到の『大外白銀空中先マイ』を叩き込んだ俺(誠)と、その死角を突いて鮮やかに二番手へ這い上がった守屋あおい。山口支部による完璧なワンツー体制のまま、レースは最終周回、運命の最終ターンマークへと突入していた。
勝負は決した。誰もがそう確信したはずだった。あおいの『氷結マブイ』が進路を鏡面へと変え、佐賀の若き猟犬・宮地明の猛追を完全にシャットアウトしたはずだったからだ。
だが、俺の網膜モニターの端で、あり得ないエラーコードが激しく明滅を始めた。
(……おいおいおい、嘘だろ誠!? 後ろのビーグル野郎、マブイの出力を……『ゼロ』にしやがったぞ!?)
スーが驚愕にパグ耳を跳ね上げ、脳ニューロンを通じて絶叫する。
出力をゼロだと!? この江戸川の狂暴な濁流のうねりの中で、推進力を捨てるのは自殺行為だ。だが、宮地明と愛機『毅』は、あおいの作った氷の防壁の手前で、すべての工学エネルギーを完全に遮断――文字通り「完全なる脱力」を敢行した。
慣性だけで進む宮地の機体は、重い泥水のうねりに逆らうのをやめ、江戸川の魔物そのものと同化するように、あおいのターンの極小の隙間へと滑り込んでいく!
「……そこを、通すかぁぁぁ!!!」
あおいがバイザーの奥で目を見開き、即座に氷の刃を再構築しようとするが、摩擦を失った宮地の機体は、あおいの引き波の力を逆に推進力へと変えて、その内懐を剃刀のように深く、鋭利に抉り取った!
化け物か! 出力を排気するのではなく、周囲のエネルギーを「いなして」加速する独自の変則ハック。一瞬にしてあおいを屠った佐賀の猟犬が、ゴール前の直線、トップを走る俺の三十九号機『白銀黒影・改』の右サイドへと牙を剥いて肉薄してくる!
「こいつ……っ!!」
俺はハイドロレバーを限界まで引き絞り、スーの白銀のマブイをプロペラシャフトへ一滴残らず叩き込んだ。カウルが激しく振動し、桜嵐の舞い散る中川の水面が真っ二つに割れる。
左に誠、右に宮地。コンマ〇〇一秒の世界で、二本の閃光が並んだままゴールラインへと突っ込む。
「俺が通ると決めた勝利への路だぁぁぁ!!!」
宮地の咆哮が、電脳通信を突き破って俺の鼓膜を震わせた。
視界が白銀とオレンジの閃光で爆発する。ほぼ同時、いや、完全に同時の突入。誰もが息を呑み、カササギの電算掲示板を凝視した。一瞬の静寂の後、東都の夜空に灯ったのは、非情なるオレンジの数字だった。
【一着:3号艇・宮地 明(佐賀)】
【二着:4号艇・速水 誠(山口)】
【三着:1号艇・守屋あおい(山口)】
「……負けた。完璧に、一瞬の脱力で差し切られたな」
スロットルを戻し、失速していく機体の中で、俺は自分の両腕の震えを静かに見つめていた。脳内のニューロンが、ゴール寸前で完璧な「無」を体現した宮地の走りを何度も、何度も反芻する。勝負師としての飢えが、胃の奥を灼け付くような痛みで満たしていく。
ピットに戻ると、悔しさに顔をぐしゃぐしゃに歪めたあかりが、巨大な油圧レンチを握りしめたまま、足音を荒立てて俺に詰め寄ってきた。
「誠師匠!!! あとコンマ〇一秒、マブイの噴射角度を絞っていれば……うちのサスペンションなら、あの脱力ターンにだって絶対に競り勝ててたっすよ!!!」
あかりの悔し涙が、泥に汚れたハイドロカウルにポツリと落ちる。
その怒号の背後で、あおいは無言のままヘルメットを脱いだ。その美しい顔は怒りに震えているのではない。己の不覚を、宮地という男の執念を、冷徹に見据える勝負師の氷結マブイが、ドックの空気を痛いほどに張り詰めさせていた。
「誠。次は予選じゃない。……あの佐賀の犬もろとも、俺がまとめて一マークでカチコチに凍らせてやるから」
「……ああ。次は、俺もただじゃ引き下がらねえよ」
スーが、あかりの涙をそっと舐め、それから宮地の方を向いて、低く、獰猛な唸り声をあげた。
泥濘から再誕した新王者のSG初戦は、ハナ差の屈辱という最悪の洗礼となった。だが、上等だ。この喉の渇きこそが、この胸を焦がす悔しさこそが、俺たちを最高峰の聖域でさらなる極致へと押し上げる、極上の推進燃料になる。
江戸川の魔物が不敵に嗤う準優勝戦へ向けて、俺たちは今、もう一度魂の数式を、より獰猛に書き換え始めるのであった。




