生物工学緩衝(スー・リキッド・クッション)
二〇三〇年一月二十八日、深夜二十三時。
ボートレース江戸川のピットを静かに照らす水銀燈の光は、激戦の果ての残酷な静寂を強調していた。
新奥義『流体ハック・螺旋錨打』による潮流ハッキングで準優勝戦への切符を掴み取ったものの、その代償はあまりにも重く俺(誠)の肉体を内側から蝕んでいた。
「……っ、あれ。……指先に、力が、入らない……」
三十九号機『白銀黒影』の操縦席から降りようとした俺の全身が、激しく震え出した。ドックのタラップを掴もうとした右手が、壊れた精密機械のように虚空を掴む。
弟・健吾から受け継いだ『杭打ち』の強振、そして江戸川の濁流を力ずくで引き摺り下ろした代償――『異常振動症』の牙だった。
「誠師匠!!! 動いちゃダメっす!!!」
暗闇を切り裂く悲鳴と共に、チーフ整備士・野田あかりが血相を変えて駆け寄ってきた。俺の崩れ落ちる身体をストレッチャーへと押し倒し、その震える右手を強く掴む。
「完全な異常振動症の初期症状っす! 泥の過負荷波動に神経系が汚染されてるっすよ! このままじゃ明日走るどころか、二度とハイドロハンドルを握れなくなるっす!!」
あかりの瞳には、技術者としての激しい怒りと矜持がギラついた執念となって宿っていた。
「ちょっと待て、あかり……! 明日はもう準優勝戦なんだぞ、まだギヤの調整を……!」
「うるさいっす! 黙って大人しく寝てろっす、この馬鹿師匠!!」
あかりの怒号が響く。彼女は俺をレーサー立ち入り禁止の『特一級電算整備エリア』へと力ずくで運び込んだ。
「整備士法第二十四条、チーフ整備士の特権権限による『選手拘束』をここに発動するっす! 今の誠さんは、三十九号機の一部として修復されるべき『重度オブジェクト』っす!」
流体マブイの乱れを中和する高濃度電算グリスが塗り込まれ、特殊な『絶縁電磁拘束バンド』によって俺の全身はストレッチャーへ完全に固定された。
(……おい誠、諦めな。あかりがこの職人モードに入った時の整備士は、ダービーキングだろうが神様だろうが関係ねぇ。逆らえば、ハイドロプロペラと一緒にその身を木っ端微塵に磨り潰されるぜ)
脳ニューロンの奥で、相棒のパグ機獣・スーも、泥にまみれたその白銀の毛並みを休めるように足元で丸くなった。
強制安静の暗闇の中、あかりの孤独な死闘が幕を開ける。
「操縦者の神経に一ヘルツも伝えない、絶対的な流体の『盾』を機体の中に創るしかないっす……! スー、あんたのマブイ出力を、三十九号機のサスペンションのパーツとして『外付け』で電算同調させるっすよ! あんたは誠師匠の命を守る、最高の『緩衝材』になるっす!」
あかりはスーの白銀のマブイを一種の流体金属として機体のフレーム接合部に配置。キックバック振動を物理的・霊的に十分の一まで減衰させる絶対防御システムを構築していく。
【電算機体改修:『生物工学サスペンション(スー・リキッド・クッション)』】
『公式チャンネル『カササギ』のPVカウンターは深夜の緊急メンテナンスコードを検知し、【一億三千万】の大台へと向かって、不気味に数字を刻み続けていた』
午前四時。すべての調律を終えたあかりは、油と煤にまみれた顔のまま、新生した白銀黒影のカウルを静かに撫で下ろした。
「……誠師匠。起きてるっすか。江戸川の魔物を完全に黙らせるための、新しい『爪』と『盾』、用意できたっすよ」
ゆっくりとクリア・シルバーの目を開けた。拘束バンドを解かれたその両腕には、もはや無様な震えは一ミクロンも存在しなかった。代わりに、凪の海のような恐ろしいほどの絶対的な「静寂」が宿っている。
「……ああ。往こう、あかり。東都の神域を、今度こそ俺たちの錨で引き摺り下ろす」
動かなくなった腕に、相棒の盾を宿し、俺は再びあのハイドロハンドルへと手を伸ばす。




