魔窟を統べる錨(スパイラル・アンカー)
二〇三〇年一月二十八日、十六時五十分。ボートレース江戸川――プレミアムG1「G1江戸川選抜戦」、予選四日目・最終第十二レース予選特選。
「夜の江戸川は孤独な者だけを味方にする」という石田レジェンドの冷徹な言葉が、俺の脳裏に居座り続けていた。
山口の栄光という過去を一度ここで完全に遮断する。今の俺の背中にあるのは、ただ、泥と鉄の臭いがする濁流だけだ。
準優勝戦への進出条件は「一着絶対」という極限の崖っぷち。
一コースには、江戸川の暴走王・濱田一翔さんが「十三号機・アクセラ」を不気味にハミングさせて占拠。四コースのカド位置に、俺は舳先を据えた。
下げ潮の三角波が、カウルをバラバラに打ち据える。
電子大時計の針が動き出す。ピットアウト! 俺の放った電算踏み込みは、ST【.〇三】の極限タッチスタート!
「よし、行ける……スー、位置を固定しろ!」
スーが紅い瞳を爆発的に明滅させた。それだけで十分だった。
チルト一・五度の過負荷加速「パイルドライブ」の重厚な直線足が、下げ潮の三角波を踏み潰し、一マークの手前で濱田さんのアクセラへと並びかけた。だが、暴走王の地力は凄まじかった。
流体抵抗を爆発的な旋回反発力へと反転させる「Vモンキー」旋回。さらに濱田さんはカウルの端から異常振動の周期を不規則に放射し、水面に無数の「泥の偽像」を現出させて俺の視覚ジャイロを完全にハッキングしてきた。
視覚もサーマルマップも完全にホワイトアウトした混沌の一マーク。だが、俺の精神ジャイロは一ミクロンも怯んではいなかった。
「耳で聞くな。目で追うな。俺は今、世界でたった一人、この江戸川の濁流の底とだけ対峙している……!」
目を閉じ、ハイドロハンドルのナノ端子を通じて、メインブレードが感知する「下げ潮の狂暴な流速の周期」だけに全意識を完全集中させる。アクセラが波の反発力で水面からわずかに跳ね上がるコンマ〇〇一秒の流体死角!
「そこだ……!」
昨夜完成させた「螺旋杭打」の縦の超振動打音を進化させ、下げ潮の流速の因果律へと力ずくで強制同期させた。「螺旋錨打」——杭で打つのではなく、底へと吸着させる。縦の打撃から底への固定へ、一夜にして変化させた技だ。
中川の濁流そのものを巨大な螺旋の錨に変質させ、一マークの座標に、周囲の水を底へと引き摺り下ろす超高密度の流体地獄を瞬間生成!
「なっ……なんやこれ!? 反発の波が、ない……!?」
波の反発力を失ってスカッと空を切った濱田さんの「十三号機」は、螺旋の錨に水面ごと吸い込まれて流体バランスを完全に喪失、引き波の中へ大きく失速して後退していった。
「一着、四号艇・速水誠!!!」
回航してきた俺は、激しい異常振動症のサージに襲われながらも、不敵な王者の笑みを見せた。
「あかり……。この江戸川の濁流、俺たちの「錨」で完全に引き摺り下ろしたぞ」
「当然っすよ、誠師匠! これで明日の準優勝戦への進出、確定っす!!!」
地獄の底から這い上がり、ついに十八番目の椅子を死守した。だが東都の魔窟の最深部には、大倉理恵さんが、白銀の機獣「りん」と共にさらなる神域の防壁をピットの奥で静かに研ぎ澄ませて待っている。




