第119話:兵庫の超新星、スリットに爆ぜる ― 優勝戦、4カドの衝撃 ―
2029年7月23日、16時50分。広島・宮島ボートレース場。
G1レディースダービー、最終12レース。
西日に照らされた大鳥居が、水面に長く、荘厳な影を落としている。しかし、その静謐な景色とは裏腹に、電子の海は沸騰していた。
公式YouTubeチャンネル**『カササギ』。
画面右上に表示される累計PVカウンターは、発走直前にして1億9,850万**を指していた。
かつて速水誠がSGの舞台で打ち立てた「2億」という聖域。それはからくり競艇における一つの到達点であり、伝説の証であった。今、その大記録を、女子レーサーたちが塗り替えようとしている。
ピットを離れる6艇のエンジン音が、宮島の杜に響き渡る。
1コース・守屋あおい、2コース・山本玲奈、3コース・坂田結衣、4コース・竹下莉々華、5コース・高橋祥子、6コース・登えりな。
この6人が背負っているのは、単なる勝敗ではない。全世界2億人の期待と、自身の矜持、そして泥の中から這い上がってきた執念そのものだった。
「12レース、優勝戦! 大時計の針が動き出しました。世界が見守る中、運命のスタートラインへ!」
実況の声が震えている。
守屋あおいが、機体をインコースに据え、天女の如き静謐なマブイを湛えて構える。昨日、坂田の『鉄槌』を空中旋回で粉砕した彼女の瞳には、王者の風格さえ漂っていた。
しかし、4カドに引いた竹下莉々華の瞳には、もはやこれまでの「ドジっ娘」の面影は微塵もなかった。
ヘルメットの奥で、彼女は莉々華特有の「パニック的集中力」を、かつてない密度で凝縮させていた。
「あおいさん……誠さん……私、もう転びたくないんです。誰の引き波も浴びたくない……。だから、誰よりも先に、一番先に行きます!!」
その瞬間、全世界のデバイスが一斉に震動した。
画面上のカウンターが、限界を突破して火花を散らす。
【累計PV:200,000,000 突破!!】
「キタァァァ! レディースダービーも2億突破! 誠の記録に並んだ、いや、超えていく! この熱狂、誰が止めることができるのか!!」
宮島の空に、実体化したマブイの光がオーロラのように降り注ぐ。2億人の観測者が生み出すエネルギーは、水面を電子の光でコーティングし、機体たちの限界リミッターを強引に引き剥がした。
「全速……全速、全速ぅぅぅ!!」
莉々華が叫びと共にレバーを握り込むと、39号機Bユニットが猛烈な蒸気を噴き上げた。
ダッシュスタート、4コース。
彼女のマブイは、恐怖を燃料にして爆発的な推進力へと変換されている。
大時計の針が垂直に重なる、その0.01秒前。
【竹下莉々華 ST .01】
「莉々華、行ったぁぁ!! またしても神の領域、コンマ01! 4カドから内側を完全に一飲み! まるで青い稲妻だ!!」
それに続く高橋祥子が、滋賀支部の意地をかけて莉々華の加速に食らいつく。さらに6コースの登えりなも、親友が作った「光の航跡」を信じ、迷わずフルスロットルで追随した。
スリットライン通過の瞬間、アウト勢三人が、インで構えていたあおい、山本、坂田の三人を、1艇身以上置き去りにするという異常事態が発生。
「なっ……何やあの伸びは! 人間の反応速度やないで!」
坂田結衣が驚愕に目を見開く。
あおいの視界の端を、莉々華の蒼い残像が、音を置き去りにして通り抜けていった。
1マーク。莉々華の機体は、もはや制御不能な弾丸と化していた。
通常なら減速して「差し」に回る場面。しかし、莉々華はあおいから教わった空中旋回を、さらに荒っぽく、暴力的に解釈した。
「あわわわっ、止まれぇぇ!! 止まらないなら……飛んじゃえぇぇ!!」
莉々華はハンドルをねじ込み、同時に機体の重心を強引に跳ね上げた。
誠の空中旋回が「滑空」なら、莉々華のそれは「爆発」だった。水面を何度も激しく叩きつけられながら、その反動をすべて前進力に変える、狂気の跳躍。
『奥義:莉々華・ハイパー・ダイブ』!!
「飛んだぁぁ!! 莉々華、1マークで三度跳ねて、内枠三艇の頭上を越えていったぁ!!」
莉々華の着水時に発生した巨大な「壁」のような引き波が、内側のあおい、山本、坂田を襲う。
そこへ、高橋祥子と登えりなが、莉々華がこじ開けたわずかな隙間に「差し」のハンドルを鋭く入れた。
バックストレッチに出た瞬間、宮島の歴史は塗り替えられた。
1位、4コース・竹下莉々華。
2位、5コース・高橋祥子。
3位、6コース・登えりな。
外枠勢が上位を独占し、優勝候補筆頭のあおいは絶望的な4番手に沈む。
4. バックストレッチの咆哮:エンジンは悲鳴を上げている
「信じられない展開! 莉々華がトップ! 高橋、登が続く! 内枠勢は全滅か!? 累計PVは2億1,000万を記録し、宮島が揺れている!!」
【優勝戦:バックストレッチ隊列】
| 順位 | レーサー | 状況・機体状態 |
| 1位 | 竹下 莉々華 | 1艇身リード。しかし、過負荷でエンジンから黒煙が上がり始めている。 |
| 2位 | 高橋 祥子 | 滋賀の意地。莉々華の懐を虎視眈々と狙い、最短距離を走る。 |
| 3位 | 登 えりな | 莉々華を守るように、後続のあおいを牽制しながら3番手を追走。 |
| 4位 | 守屋 あおい | 絶望的な4番手。しかし、その瞳にはまだ「諦め」の色はない。 |
ピットでモニターを握りしめる速水誠の肩で、シロが金属性の叫びを上げた。
『誠! 莉々華の野郎、完全にリミッター外れてやがるぜ! 自分のマブイをエンジンの燃焼室に直接流し込んでやがる! このままじゃゴール前にエンジンが粉っ端微塵に爆発するか、あおいが『天女』の本領を発揮して奇跡を起こすか……どっちかだ!』
誠は、モニター越しに4番手に沈むあおいの「指先」を見た。
彼女はまだ、スロットルを緩めていない。莉々華が作り出した絶望的な引き波の渦の中で、あおいは莉々華から借りた「泥だらけのレンチ」の感触を思い出していた。
「(莉々華ちゃん……すごいよ。泥の中から立ち上がって、今、誰よりも輝いてる。……でも、私は、ここで終われない)」
あおいの背中に、再び白銀の翼が広がり始める。
しかし、今度の翼は昨日までの「優雅な羽衣」ではない。
莉々華の泥臭い執念を取り込み、坂田の鉄槌のような剛毅さを備えた、真の王者の翼。
「誠くん、見てて。……天女は、泥を纏って、龍になる」
2マーク。
独走する莉々華の背後に、死神のような速度で肉薄する一筋の白い閃光。
2億1,000万人の熱狂が、宮島の夜を白昼に変えようとしていた。




