泥濘(でいねい)の王
二〇三〇年一月二十六日、十六時五十二分。ボートレース江戸川――プレミアムG1「G1江戸川選抜戦」、予選二日目・最終第十一レース予選特選。
一瞬の爆発的な静寂の後、東都の魔窟は、未曾有の罵声と冷酷なる嘲笑のパケットパレードへと一気に変貌を遂げた。
「第十一レース予選特選!!! トップ旋回を狙った二号艇の速水誠、まさかの落水失格!!!」
実況の絶叫が堤防のコンクリート壁に激しく反響し、俺の脳ニューロンへと容赦なく突き刺さる。
数秒前まで、俺は確かに勝利を完全に確信していた。健吾との共鳴によって長谷川平士郎の「水縄」を螺旋の力で引き千切り、三十九号機はかつてない電算熱量を帯びていた。大倉理恵さんの懐へと鋭利に黒い機首を向けたその瞬間、目に見えない流体の陥穽が待ち構えていた。
「ここで完全に決める……!」
荒れ狂う三角波を踏み台に、機体を物理限界まで傾け急角度で立ち上がる旋回。だが、俺は決定的な工学計算違いをしていた。大倉さんのチワワ型の相棒「りん」が放つ「浄化のマブイ」の真の恐ろしさを。
大倉さんが旋回した軌道上は、一時的にマブイの波動が完全消去された「虚空の空白地帯」と化していた。
「っ!? 波がない……!? ハイドロエッジの踏ん張りが利かない!!」
反発を予期して重心を投げ出していた三十九号機は、頼るべきうねりを失って空を切り、代わりに荒れ狂う中川の濁流を深く捉えてしまう。
骨を直接粉砕するような強烈なキックバックがハイドロハンドルを伝って俺の神経回路を直撃。制御を失った機体は木の葉のように泥水の上で激しくバウンドし、カウルが完全にひっくり返った。
【二号艇・速水誠――過負荷による落水失格】
俺の視界は茶褐色の濁流によってホワイトアウトした。
「……っ、ごほっ……!」
水面に浮き上がり、激しくむせる。救助艇へ引き上げられた俺の耳に届いたのは、堤防の上から降り注ぐ罵声パケットだった。
「綺麗事のハイドロレースは宮島のプールでやってろ! 偽物の王様が!」
堤防の上の健吾がどんな顔をしているか、俺には見えなかった。
ピットのコンクリートへと戻り、ずぶ濡れのままカウルから這い出た俺は、立っていることすらままならず、激しく膝をついた。異常振動症のサージにより、指先のナノ端子は完全に麻痺して消失している。
そんな俺の前に、チーフ整備士・野田あかりが立ち、無造作に防寒タオルを差し出した。
「誠師匠。波の周期も読み切れてない、相手の能力も見えてない。……今の師匠は、ただの「焦り」の数式で走ってるっす」
あかりの容赦のない言葉が胸を刺す。スーが力なく頭を垂れた。それだけで十分だった。
「……すまない、あかり。スー」
その夜。宿舎の薄暗い一室で、俺の受信端末に一通の暗号メッセージが滑り込んできた。差出人は――山口の守屋あおい。
「誠、大丈夫? 泥にまみれた後の白銀が、世界で一番綺麗だってこと、俺は信じてるよ」
電子画面を静かに消去し、俺は完全な暗闇の中で天井を見つめ続けた。
「……泥にまみれた後の、白銀……」
耳の奥で、石田健太郎の放つ「無音」の恐怖のハミングが不気味に響いていた。ダービーキングという過去を今ここで完全に脱ぎ捨てた、一人の泥臭き勝負師としての本当の反撃が、ここから始まる。




