第116話:逆風の翼、宮島に舞う ― あおい、決死のチルトアップ ―
2029年7月21日、宮島。
G1レディースダービー四日目、予選最終日の朝。安芸の海面は、昨日までの美しい凪をかなぐり捨て、牙を剥いていた。2マークから1マークに向けて直線的に吹き抜ける、風速5メートルの向かい風。水面には細かな「波頭」が立ち、ボートを激しく叩く。
この条件下では、ほとんどのレーサーが「チルト(機体の取り付け角度)」を下げ、重心を安定させるのがセオリーだ。向かい風の中で機首を上げれば、カウルの下に空気が入り込み、ボートが木の葉のように舞い上がってバック転――すなわち「転覆」を招くからだ。
しかし、ピットの片隅。
山口支部の整備エリアでは、耳を疑うような会話が交わされていた。
「誠、あかりちゃん。……チルト、プラス1.5に上げて」
あおいの静かな、しかし鋼のように硬い言葉に、ピットの空気が凍りついた。
「あおいさん、正気っすか!? 向かい風5メートルでチルト1.5なんて、スタートラインを越える前に空を飛んでバック転しちゃうっすよ! それはもはや整備じゃなくて自殺っす!」
あかりがタブレットを落としそうになりながら悲鳴を上げる。しかし、誠は違った。彼はあおいの瞳の奥に、昨日坂田に叩きつけられた屈辱を燃料とし、莉々華の泥だらけのレンチで鍛え直された「勝負師の炎」を見た。
「……やりましょう。風に抗うんじゃない。風に向かって飛ぶのが、本当の『翼』だ」
誠は迷うことなくスパナを手に取り、39号機の心臓部へと手を伸ばした。
「アホやな。天女だか何だか知らんけど、脳みそまでお花畑になったんか?」
3コースに自身の艇を構える坂田結衣は、1.5に跳ね上がったあおいの機首を遠目に見て、鼻で笑った。彼女の経験上、この気象条件でのチルトアップは「敗北宣言」に等しい。
「天女が焼き鳥になる瞬間、特等席で見せてもらうわ。小鉄、しっかり見ときや」
坂田のマブイは、昨日よりもさらに重厚な、鉛のような威圧感を放っている。彼女はあおいの精神を再び「重力」でへし折るつもりだった。
一方、あおいは無言でヘルメットのシールドを下ろした。
彼女の指先は、莉々華から借りた「泥だらけのレンチ」を握った時の感触を覚えていた。綺麗である必要はない。ただ、誰よりも速く、誰よりも高く。その渇望だけが、彼女を支配していた。
「12R、勝負駆け! 1号艇・守屋あおい、チルトは驚愕のプラス1.5! 向かい風5メートルを切り裂いて、真実の翼が広がるかぁ!?」
公式YouTubeチャンネル**『カササギ』のPVは、ついに1億1,000万**を突破。
全世界の視線が、逆風に晒される一隻の白いボートに集束する。
「(誠くん、あかりちゃん、莉々華ちゃん……そしてシロ。力を貸して!)」
大時計の針がゼロを叩く。
あおいの機体は、凄まじい風の抵抗を受け、舳先がガクガクと天を仰ぐように跳ね上がった。転覆の臨界点。観客席から悲鳴が上がる。
『奥義:天女の翼・逆風翔』!!
向かい風という「抵抗」を、彼女のマブイが強引に「揚力」へと変換し、機体の姿勢を空中で固定した。あおいの機体は、水面を叩くのではなく、波の頂点をかすめるようにして数センチ浮上した状態で滑空を始めた。
「なっ……何やあの伸びは! 吸い込まれるように前に出よる!」
坂田が驚愕に目を見開く。3コースから全速で握ったはずの坂田の機体が、まるで止まっているかのように見える。あおいの加速は、物理法則を置き去りにし、スリット通過からわずか数秒で坂田を2艇身突き放した。
1マーク。あおいの前には、まだ坂田が昨日残した「負の感情」が引き波となって渦巻いていた。しかし、今のあおいには、そんな泥を気にする必要はなかった。
「空の上には……泥なんて、届かない!」
あおいはハンドルを入れ、同時にマブイを機体の底面へ一気に放出した。
ボートは水面を滑るのではなく、空中を舞う羽衣のように優雅に、そして鋭く旋回した。坂田の『鉄槌』が届かない高み。白銀の粒子が、安芸の海面にオーロラのように舞い散る。
「回ったぁぁ!! 守屋あおい、誰も触れることのできない『空の道』を独走! 昨日の屈辱を、向かい風を味方につけた空中旋回で粉砕しました!!」
実況の絶叫が響き渡る中、カササギのPVは1億2,000万を記録。
四日目 12R:予選最終結果
| 順位 | 艇番 | レーサー | 戦評 |
| 1着 | 1 | 守屋 あおい | 驚愕のチルト1.5。空中旋回『逆風翔』で完全復活。 |
| 2着 | 3 | 坂田 結衣 | 圧倒的な伸びの差に唖然。何もできず、女王の誇りを傷つけられる。 |
| 3着 | 5 | 竹下 莉々華 | 「あわわ、あおいさんが飛んでるー!」と叫びながら、今日も泥臭く3着を死守。 |
ピットに戻ったあおいは、極限のマブイ消費で顔を真っ白にしていた。しかし、機体から降りた彼女は、駆け寄る誠に向かって、これまでの人生で最も輝かしい、最高の笑顔を見せた。
「誠……私、飛べたよ。……風が、味方してくれた」
その華奢な手には、まだ莉々華から借りた泥だらけのレンチが握られていた。
一方、坂田結衣は、小鉄の頭を乱暴になでながら、独り言のように、しかし確かな敬意を込めて呟いた。
「……ちっ。甘いのは、ウチの方やったか。あんなキレた走り……今の女子にできる奴がおるなんてな」
2029年7月21日 17時30分:からくり競艇公式YouTube『カササギ』PV更新
> 「【伝説の翼】守屋あおい、向かい風を味方に『空中旋回』で圧勝! 坂田の嘲笑を粉砕! 累計PV1.2億突破、聖母は戦神へと進化した!!」
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あおいの得点率は奇跡的に回復し、準優勝戦進出が決定。
しかし、その先に待つのは、予選トップ通過を果たした「滋賀の怪物」近間伊織。
「あおいちゃん……その翼、私の『紫金』でどこまで重くできるかしら?」
準優勝戦。天女の翼 vs 女王の引力。
宮島の戦いは、さらなる極致へと加速する。




