表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
からくり競艇 ~黄金の波切り、魂のフルスロットル  作者: 水前寺鯉太郎
第6章:ダービー編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

115/193

第115話:波乱の完走、そして「泥」の絆 ― 莉々華の奇跡とあおいの再起 ―

2029年7月21日、夕刻。

広島・宮島ボートレース場の空は、安芸の神々が流す涙のように重苦しい雲に覆われていた。G1宮島レディースダービー三日目、第11レース。そこで起きた「天女の墜落」は、電子の海を通じて瞬く間に世界中へと拡散された。

公式YouTubeチャンネル**『カササギ』**のコメント欄は、未曾有の荒れ方を見せていた。坂田結衣による非情な『浪速の鉄槌ハンマー・ターン』――。それは女子戦の華やかさを根底から覆す、暴力的なまでの勝利への執念だった。

「あんなのボートレースじゃない」「あおいちゃんが壊れてしまう」といった悲鳴と、坂田への激しい非難。サーバーは物理的な熱量を帯び、冷却ファンが異音を立てるほどの混迷を極めていた。

しかし、勝負の世界において、感情は一銭の価値も持たない。

守屋あおいが喫した「転覆失格」によるマイナス5点という致命的な減点。その冷徹な数字だけが、電光掲示板に刻まれていた。

救助艇から降りたあおいの瞳は、泥水に汚れ、かつての透明な輝きを失っていた。震える肩を抱き、唇を噛みしめる彼女の姿に、2億人の視聴者は「あおいの夏は終わった」と絶望した。

だが、運命という名の脚本家は、この陰鬱なエピソードの直後に、最も滑稽で、かつ最も熱い「救済の奇跡」を用意していたのである。


あおいが絶望の淵に沈んだ直後の第12レース。

そこに、兵庫の「ドジっ娘」こと竹下莉々華の姿があった。

彼女のこれまでの戦歴は、ある種の名物ですらあった。1マークの引き波に呑まれては自爆し、コーナーを曲がりきれずに消波装置と「お友達」になる。ファンからは親愛を込めて「ダイブ女王」と呼ばれ、今日も今日とて水飛沫を上げて消えるのが、彼女の日常だった。

しかし、この日の莉々華は違った。

ピットですれ違った際、あおいの震える背中を見た瞬間、彼女の中に眠っていた「泥臭き機兵の魂」が目を覚ましたのだ。あおいは、莉々華にいつも優しく整備の基礎を教えてくれた。その憧れの先輩が、泥を啜らされ、踏みにじられた。

「……あおいさんが、あんなに頑張ってたのに。私まで転んでちゃ、兵庫のレーサーの名が廃るよぉぉ!」

莉々華はスリットラインに向けて、かつてない集中力を発揮した。コンマ12。彼女にしては珍しく「普通」の、しかし魂を削り出したような全速スタート。

1マーク、坂田結衣が先ほどのレースで荒らしに荒らした、呪いのような乱気流と猛烈な引き波が彼女を襲う。39号機の機首が、目に見えない巨人に突き上げられたかのように、大きく宙に浮いた。

「ああっ、竹下! またいつものダイブかぁ!?」

実況の声が響き、視聴者が「やっぱりか」と諦めかけたその時。

莉々華は絶叫しながら、自らの未熟なマブイをエンジンの排気口へと無理やり叩き込んだ。機体の「尻」を水面に叩きつけ、重心を強引に引き戻す。

「落ちない……絶対に、落ちないよぉぉ!」

ハンドルが激しく暴れ、手首の骨が軋む。それでも彼女は爪が剥がれんばかりにグリップを握りしめた。不格好に跳ね、カウルが悲鳴を上げる。しかし、彼女は泥臭く、這いつくばるようにして1マークを回りきった。

結果は、意地の3着。

転覆女王が、宮島の荒波を「無傷で完走」するという、ある意味では天女の旋回よりも稀有な奇跡。それが、あおいへの逆転のファンファーレとなった。

2. 泥だらけの「お守り」:継承される不屈の意志

ピットへ戻るや否や、莉々華は自分の機体も放り出し、まだ濡れたレーシングスーツのままあおいの元へと走った。あおいは整備場で、一人静かに愛機を解体していた。その指先はまだ、冷たい海水の恐怖で震えている。

「あおいさん! あおいさん! 私、私……完走しました! 3着です! 莉々華、今日は一回も沈まなかったですよ!」

あおいは、工具を握る手を止め、呆然と莉々華を見つめた。

莉々華の顔は泥飛沫で汚れ、鼻の頭はオイルで真っ黒だった。しかし、その瞳だけは、勝利した王者よりも眩しく輝いていた。

「あおいさんの代わりに、意地でもゴールしたかったんです。あおいさんが教えてくれた、エンジンの『音』を信じて……泥の中でも、道は見えるって信じたんです!」

莉々華は、作業着のポケットから一本の古いレンチを取り出した。

それは彼女が教習所時代から使っている、油と泥で黒ずみ、各所が欠けたボロボロの工具だった。

「これ……私が何度も転んで、何度も失敗しても、これだけは壊れなかった私のお守りです。……あおいさん、これを使ってください。坂田さんに、負けないでください。あんなの、あんなのレースじゃないです。あおいさんの綺麗な走りが、私は一番好きなんです……!」

莉々華のまっすぐな瞳。そして、どれほど不格好であっても「最後まで走りきった」という重い事実。

その瞬間、あおいの胸の奥で凍りついていた何かが、音を立てて砕け散った。

(私は何を怖がっていたんだろう。綺麗に舞うことばかり考えて、泥を啜る勇気すら忘れていた……)

あおいの目から、初めて一筋の涙が溢れた。それは悲しみの涙ではなく、自身の「甘さ」を洗い流す浄化の雫だった。


「……ありがとう、莉々華ちゃん」

あおいの声から、震えが消えた。

彼女は莉々華から受け取ったボロボロのレンチを、自らの手のひらで強く握りしめた。冷たい泥の感触。それは、今まで彼女が「天女」という虚名を守るために遠ざけていた、勝負の現場の「体温」そのものだった。

「私、勘違いしてた。天女らしく綺麗に舞おうなんて、そんなの、自分のエゴだった。坂田さんは……あの人は、泥を啜ってでも勝とうとしていた。私には、その覚悟が足りなかった」

あおいは傍らで立ち尽くしていた速水誠を振り返った。

その瞳には、今までの彼女にはなかった、誠の『波切』にも似た、鋭利な、しかし静かなる殺意が宿っていた。

「誠。……明日、お願いがあるの」

「……あおい」

「39号機のチルトを、最大まで跳ね上げて。……『スカイ・ハイ』を、もう一度私に見せてほしい」

誠とあかりは、思わず息を呑んだ。

チルトアップ。それは、誠の代名詞である空中旋回を実現するための極端なセッティングだ。しかし、それは女子の筋力とマブイ量では制御不能な暴れ馬となる、まさに諸刃の剣。

だが、今のあおいの瞳を見れば、それが自暴自棄ではないことは明白だった。彼女は、坂田の重力に縛られた『鉄槌』を越えるために、自ら空へと昇る道を選んだのだ。

「あおい……それ、女子のレースじゃ禁じ手だ。成功すれば奇跡、失敗すれば……」

誠の言葉を、あおいが遮った。

「失敗しても、私は沈むだけ。もう、一度沈んだんだもん。失うものなんて、何もないよ」

誠は、あおいの決意を正面から受け止めた。

「わかった。そこまで言うなら……俺とあかりで、最高に尖った翼に仕上げてやる。坂田の鉄槌が届かない場所まで、お前を連れて行く」

2029年7月21日 20時:からくり競艇公式YouTube『カササギ』PV更新

> 「【衝撃】竹下莉々華、執念の完走&3着! 転覆女王の汚名を返上! 累計PVはついに1億を突破!! そして……守屋あおいの『チルトアップ』宣言に世界がどよめく!! 天女は泥の中から空を目指す!!」

>

ついにPVは1億の壁を越えた。

全世界が、守屋あおいの「自殺行為」とも取れる狂気の決断に、固唾を呑んで夜明けを待っていた。

四日目:勝負駆けの展望――極限の空中戦へ

明けて予選最終日。

宮島の空は、あおいの覚悟を祝福するかのように、雲一つない快晴となった。しかし、海面は依然として中潮のうねりが残り、チルトを極端に上げた機体にとっては、一歩間違えれば死に至るトラップが各所に潜んでいる。

ピットでは、あおいが愛機「39号機・改」の最終調整に入っていた。ポメラニアンのヘラが足元でキャンキャンと鳴き、主人のマブイを活性化させている。

| レーサー | 状況・意気込み |

| 守屋 あおい | 得点率崖っぷち。準優勝戦進出には1着が絶対条件。誠直伝の「空中旋回」を女子戦で初解禁。 |

| 坂田 結衣 | あおいの変化を「無駄な足掻き」と切り捨てつつも、ピットに漂うあおいの殺気に、歴戦の勘が警鐘を鳴らす。 |

| 近間 伊織 | 「あおいちゃん、面白くなってきたわね……。泥を纏った天女が空を飛ぶ姿、間近で見せてもらうわよ」 |

あおいは、ヘルメットを小脇に抱え、静かに水面を見つめていた。

彼女の背中には、目に見えないほど巨大な、白銀と泥色の混ざり合った「不屈の翼」が広がり始めていた。

「坂田さん。……空の上には、泥なんて届かないこと、教えてあげる」

宮島ダービー四日目。

運命の勝負駆け。

天女が、一億人の熱狂を翼に変えて、再び神域へと舞い上がる。

第百十五話:予選最終戦「スカイ・ハイ・シンデレラ」

スリット:0mの地平線

大時計の針が回り、運命のファンファーレが鳴り響く。

1号艇には坂田結衣。4号艇にあおい。

坂田は悠然とインコースを占拠し、昨日の再現を狙う。対するあおいは、4コースからカドを取り、チルトを限界まで跳ね上げた「空中仕様」で大外に構えた。

「行くよ、ヘラ! 誠、あかりちゃん、莉々華ちゃん……見てて!」

あおいのマブイが爆発した。

チルトアップされた機体は、水面との接触面積が極端に少なく、直線での伸びが異常なまでに高まっている。

スリット通過――あおいの時計は、驚愕の**【コンマ01】**。

それは、恐怖を捨て、未来を掴み取ろうとする者だけが到達できるゼロの地平線だった。

1マーク:重力を置き去りにする跳躍

坂田結衣が先マイを狙い、盤石の旋回軌道を描く。

「甘いわ! どんなに速くても、この引き波からは逃げられへんで!」

坂田が『浪速の鉄槌』を振り下ろそうとしたその瞬間、あおいの機体が1マークの手前で異様な挙動を見せた。波を斬るのではない。波を「蹴った」のだ。

誠直伝の技術――機首をわずかに持ち上げ、空気をカウルの下に潜り込ませることで、機体を一時的に滑空させる**『空中旋回スカイ・ハイ・ターン』**!

「飛んだぁぁぁ!! 守屋あおい、機体が水面を離れた! 坂田結衣の引き波の上を、文字通り飛び越えていく!!」

実況の絶叫と共に、白い機体が坂田の頭上を通過する。

坂田の『鉄槌』は空を切り、水面を叩きつけるだけの無駄な衝撃となった。あおいは空中で旋回を完了し、誰よりも早く、誰よりも美しい放物線を描いて水面に着地した。

戴冠:泥の中から生まれた女神

バックストレッチに出た時には、あおいは坂田を5艇身以上引き離していた。

一億人の視聴者が目撃したのは、泥を啜り、絶望を味わい、それでもなお「翼」を焼き直して立ち上がった一人の女性の、真の強さだった。

ゴールラインを駆け抜けた瞬間、宮島の水面に七色の虹がかかった。

あおいは、莉々華から借りた泥だらけのレンチを胸に抱き、勝利の咆哮を上げた。

「……坂田さん。私、もう泥を怖がらないよ」

ピットに戻ったあおいを、誠が、あかりが、そして莉々華が、涙と笑顔で迎える。

カササギのPVはついに1億2,000万を記録。

天女の物語は、ここから「真の伝説」へと突入していく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ