江戸川の執行人(グラビティ・アンカー)
江戸川競艇場(ボートレース江戸川)。それは全国二十四場の中で唯一、河川(中川)そのものを競走水面として使用している極めて特殊な特区であり、その特異性は他のいかなる電算水面の追随をも許さない。レーサーたちからは畏怖と絶望を込めて、古くから「日本一の難所」と呼ばれていた。
宮島から約半年。二〇三〇年の幕開けと共に、俺は電撃復帰の舞台としてこの場所を選んだ。
二〇二九年の宮島。守屋あおいによる劇的なる逆転戴冠と、兵庫の竹下莉々華が起こした二着の奇跡をもって幕を閉じたレディースダービー。その激闘の渦中にいた俺は、周囲の電算予測が弾き出した「賞金王への最短距離」を歩むことはなかった。
あおいとの穏やかな時間を大切にしながらも、その裏で俺は己のマブイの純度を極限まで練り直し、レーサーとしての「核」を再構築する日々を送っていた。華やかなスポットライトから意図的に離れ、暗いガレージで機械の油にまみれ、精神の深淵を覗き込む。それは、さらなる高みへ飛ぶための、静かなる「溜め」の期間であった。
そして今、その舞台として俺が選んだのは、再建され、より凶悪な流体水面へと変貌を遂げた、あの「日本一の難所」――江戸川だ。
「……誠師匠、見てください。あの水面、マブイの流体波動がぐちゃぐちゃっす。既存の電算解析式が、一ミクロンも成立しないっすよ」
チーフ整備士・野田あかりが、震える手でタブレットの異常解析数値を指し示す。中川の川底から湧き上がる冷たい下げ潮と、東京湾から泥を巻き込みながら逆流する強烈な上げ潮。二つの潮流が正面衝突し、一マークの座標には巨大なマブイの流体渦が幾重にも形成されている。
足元のスーが紅い瞳を危険に点滅させながら、低く唸り続けた。その唸りが俺の警戒信号だ。宮島の荒波が小波に見えるほど、この水面は狂暴だ。
新調した黒い勝負服の襟を正し、俺はクリア・シルバーの瞳を深く輝かせた。この荒れ狂う水面こそが、今の自分には相応しい。
堤防の上に聳え立つスタンドからは、耳鳴りのようなエンジンの爆音と野次、そして鋼鉄に反響する不快な金属音――江戸川名物の異常振動、通称「ホワイトハンズ」の洗礼がダイレクトに脳を揺さぶる。
「マブイの制御ジャイロに、異常なまでのノイズが走るっす……!」
あかりが耳を塞ぎかけたその時、俺の背後から、氷のように冷徹にして重厚なマブイの波動が影となって迫った。
「よう、ダービーキング。久しぶりだな。だが、ここはあんたみたいな「飛ぶ鳥」を撃ち落とすには、最高の猟場だぜ」
そこに立っていたのは、東京支部を拠点とし、浅草に居を構える伝統ある機艇乗り一族・長谷川平士郎。伝説の火付盗賊改方、長谷川平蔵の血を引く末裔だ。
「江戸川の荒波で足を取られた瞬間に、俺の縄で雁字搦めにしてやる。貴様のその自慢の「翼」、江戸の泥空で毟り取ってやる」
平士郎が放った捕縛マブイの前哨が、目に見えない無数の鎖となって俺の足元に絡みつく感覚があった。動きを封じ、加速を奪う。だが、俺はその強烈な殺気を冷徹な一瞥だけで受け流した。
「……縄が切れるか、鳥が落ちるか。水面で答えを出すだけだ」
練習走行のために水面に出るや否や、三十九号機は激しいキックバックに見舞われた。
「くっ……ハンドルの反動が、直接脳のニューロンを叩いてくる……!」
荒れ水面が生み出すホワイトハンズの影。宮島で掴んだ「空中旋回」や「波切・双龍」の数式は、このカオス・カレントの前では何の意味も成さない。
ここでは、美しき旋回など無意味。泥を噛み、鎖を断ち切り、力でねじ伏せる「泥臭き力」だけが唯一の正解なのだ。俺は、かつてないほどに重いハイドロハンドルを、その両腕で強く握りしめた。指先には、一年間のブランクが生んだわずかな違和感と、勝利への狂おしい「飢え」があった。
「あかり……セッティングをすべて変える。空を飛ぶ翼は、一度ここで完全に捨てる。……この江戸川の濁流を、力ずくで引き摺り下ろすための、重い「錨」が、今の俺には必要だ」




