天衣無間(あまつつまびく)
二〇二九年七月二十四日。ボートレース宮島――プレミアムG1「宮島レディースダービー」最終日・第十二レース優勝戦。
最終周回、第二ターンマーク。悲願の初優勝を目前にした兵庫の若き比翼の蕾たちに、大阪の老狼が襲いかかった。
「兵庫の小娘二人でイチャイチャすんのは、陸の上だけにせえ!!」
四番手から安全リミッターを破壊して猛追する坂田結衣さんの機首が、防波堤のわずかな流体死角へとねじ込まれた。
流体破裂音が響く。坂田さんの黒いサージ波が、二番手を死守していた登えりなさんのハイドロジャイロを強制解除して弾き飛ばし、先頭を行く竹下莉々華の引き波をも真っ二つに引き裂いた。
坂田さんの機体は限界の過負荷で沈黙した。あの人は、自分を壊してでも若者たちの決着を引き起こした。その意地に、俺たちは応えなければならない。
登は流され、莉々華も水飛沫の壁に視界を奪われカウルが激しく傾く。
「あわわわっ、お、落ちるぅぅぅ!!! 登ちゃぁぁん!!」
上位三艇がもつれ合う失速の混沌。だがその隙間から、一隻の白銀のプレーン艇が澄んだ純白の尾を引いて静かに現出した。守屋あおいだ。
「……坂田さんの勝負師の意地、確かに受け取ったよ。でも、この宮島の海を統べるのは、俺だ!!」
あおいは三艇の引き波の間に生じた「一ミクロンの摩擦ゼロの空白」を透過スキャンし、自身のマブイを宮島の水と完全に融和させた。
摩擦係数完全なる「零」。あおいの白銀の機体は、止まりかけた三艇の引き波の迷宮を、光がガラスを透過していくかのように優雅にすり抜け、最終直線へと突き抜けた!
「守屋、空いたところを見事に差しました。一着、一号艇・守屋あおい!!!」
あおいがトップでゴールラインを駆け抜けるすぐ背後、涙と鼻水にまみれた莉々華が執念のフルスロットルで二着へと滑り込んだ。
誠はクリア・シルバーの瞳に熱い歓喜の涙を浮かべ、夕空に向かって力強くその拳を突き上げた。
「あおい!!! 行けぇぇぇ!!!」
男子と女子の合計PVは五億パケットをロックオーバー。二人の若き新王者が並び立ち、電脳神域の夏は伝説となって幕を閉じた。
ピット裏のコンクリートの上で行われた「水神祭」。
「せーの、もりもりもりやあぁぁぁーーー!!!」
あおいと莉々華の身体が、安芸の清らかなる海へと高く放り投げられた。ドバッシャァァァン!!! 白銀と碧色の水しぶきが夜空に舞い上がり、誠やえりな、あかりまでもが笑顔で海へ飛び込んでいく。
坂田さんはずぶ濡れで笑い合うあおいたちに向けてタオルを無造作に放り投げた。
「……へたくそ共が。ええレースやったわ。出直してきな」
あの時と同じ言葉だった。でも今回は違う意味だと分かった。
水神祭の心地よい寒さの中、肩にタオルを羽織った速水誠と守屋あおい。
「誠。俺、少しだけ分かった気がするよ。誠がいつもチルトを跳ね上げて見つめていた、あの「空の風」の正体が」
あおいの澄み渡るクリア・シルバーの瞳を見つめ、誠は誇らしげにスーの頭を撫でながら力強く笑った。
「ああ。あおいの「羽衣」が、俺の風をさらに高い場所へと導いてくれたんだ。……次は、もっと大きな世界規模の舞台(SG)で、二人で本物の頂点を獲りに行くぞ」
二人の新王者の視線の先には、次なる戦いの舞台――江戸川特区のシーズン開幕の咆哮が、静かに、しかし狂暴に待ち受けていた




