泥泥(どろどろ)のシンデレラ
二〇二九年七月二十三日。ボートレース宮島――プレミアムG1「宮島レディースダービー」五日目・第十レース準優勝戦。
予選得点率【五・八三】、十九位の選手との差はわずか【〇・〇一】という薄氷を踏み抜いて十八番目の椅子を勝ち取った六号艇・竹下莉々華の前に、大阪の絶対二枚看板が立ちはだかる。
公式チャンネル「カササギ」のPVは一億四千五百万を突破。
大時計の針が動き出した瞬間、一コースの鎌倉明奈さんの「女王の盾」と、二コースから超重量級マブイを乗せた坂田結衣さんの「浪速の鉄槌」が、一マークの針の穴のような座標で激しく正面衝突した。
強大なマブイの激突が生み出す過負荷の反動(サージ波)。内側の艇が怯んだその瞬間、パニックでレバーを根元まで叩き込んでいた狂気の少女が、大外から加速の概念を書き換えた。
「六号艇・竹下莉々華――ST【.〇一】!!!」
「行っけぇぇぇ!!! 俺のステンノー——! バラバラになっても走りきれぇぇ!!!」
初めて名前で呼んだ。莉々華の脳裏には、あおいに預けたあの泥だらけのレンチの記憶——最後まで走りきるという魂のデータだけがあった。
向かい風を限界まで捉えて水面を跳ねる機体。黒と金の過負荷サージの壁に対し、ピンポン玉のように激しく弾かれながらも、その反動のすべてを前進推進力へと電算反転! 大阪の二枚看板のわずかな隙間を、一本の鈍色の閃光となって突き抜けた!
「六号艇の竹下莉々華、レジェンドたちを完全になぎ倒してバックストレッチ独走状態だぁぁ!!!」
二着には、冷静に流体を制御して差し掛けた二号艇の山本玲奈さんが滑り込み、三連単六—二—全の歴史的大波乱が確定した。
ピットに戻るなり、莉々華は唇を噛む鎌倉さんと坂田さんの足元へ、ずざざざっと泥臭いスライディング土下座を敢行する。
「ごめんなさいぃぃ! 俺、ハンドルが止まらなくてぇ!」
鎌倉さんは悔しさに唇を噛みながらも、莉々華の走りを静かに目で追っていた。坂田さんはため息をつくと、小鉄のリードを持たない左手で莉々華のヘルメットを力いっぱい叩いた。
「……へた糞が。最高のタッチスタートやったわ。優勝戦、ウチらの分まで泥泥になって暴れてきなさい」
無造作に投げつけられたレジェンドのタオル。莉々華の目に、もう迷いのノイズは一切なかった。
「莉々華ちゃん、おめでとう!」
コックピットから駆け寄った守屋あおいが、莉々華の泥だらけの手を固く握りしめる。誠の足元でスーが静かに一度だけ鼻を鳴らした。
一本の古いレンチが繋いだ、山口の天女と兵庫のドジっ娘の奇跡のバトン。
莉々華を送り出したあおいは、振り返って宮島の水面を静かに見つめた。次は私の番だ。
第十一レースのファンファーレが、宮島の空に鳴り響き始めていた。




