逆風翔(ぎゃくふうしょう)
二〇二九年七月二十二日。ボートレース宮島――G1「宮島レディースダービー」四日目、予選最終日。
安芸の競走水面は獰猛な獣のように荒れ狂い、風速五メートルの強烈な向かい風が白く細かな波頭を立てていた。
この条件下、チルトを下げるのが絶対のセオリー。だが、山口支部の第三整備エリアの電算数式は、ピット全体の空気を一瞬で静まり返らせた。
「誠。あかりちゃん。……「天衣」のチルト、プラス一・五度に上げて」
「やりましょう。風に抗うんじゃない。その向かい風のすべてを推進力に変えて飛ぶのが、俺たちの本物の「翼」だ」
誠は迷うことなくスパナを手に取り、白銀の「天衣・改」の心臓部を跳ね上げた。
誠の足元でスーが静かに白い水面を見つめていた。
三コースの大阪のレジェンド・坂田結衣さんは、一・五度に異常な角度で跳ね上がったあおいの機首を遠目に睨みつけ、鼻で笑う。
「天女が焼き鳥になって水底に墜ちる瞬間、特等席で見せてもらうわ」
だが、あおいは無言でバイザーを下げた。手のひらには、莉々華から受け取った泥だらけのレンチの、重く冷たい金属の質量。綺麗である必要などない。誰よりも高く、あの黒き情念の頭上を飛び越える。その渇望だけが電算ニューロンを支配していた。
「カササギのPVカウンターは瞬く間に一億一千万を突破!!!」
大時計の電子針がゼロを叩いた。正面からの凄まじい風圧に舳先が天を仰ぐが、あおいとヘラの息が合い、その暴威を強引に反転制御した。
波頭の頂点をかすめるようにして数センチ浮上した状態で、物理法則をあざ笑う超高速の滑空!
「なっ……何やあの異常な伸び足は!?」
坂田さんの機体をスリット通過からわずか数秒で二艇身以上突き放し、第一ターンマークへ。前方には坂田さんが昨日残したドス黒い過負荷の残振引き波がうごめいていたが、あおいはハイドロハンドルを滑らかに傾けた。
「空の上には……あんたの泥なんて、一ミクロンも届かない!」
空中を舞う羽衣の放物線を描き、優雅に、そして鋭利に一マークの座標を回航。坂田さんの「浪速の鉄槌」が一ヘルツも届かない、絶対的高みの領域を、白銀の「天衣・改」が完全独走した。
「守屋あおい、向かい風を味方に空中旋回で圧勝!」
ピットへと戻り、カウルから降りたあおいは、駆け寄ってくる誠とあかりに向かって、不屈の王者の笑顔を見せた。
「誠……俺、飛べたよ。……宮島の風が、俺の味方をしてくれた」
その華奢な右手には、あのボロボロのレンチが、勝利の勲章のように固く握りしめられていた。
一方、坂田さんは愛弟子の鎌倉明奈から小鉄のリードを受け取り、老狼としての確かな敬意を込めて低く呟いた。
「……ちっ。甘かったんは、ウチの方やったか。おもろいやないの」
この劇的な一着によって、あおいの準優勝戦への進出が完全確定。しかし、その先に待つのは、予選をトップ通過した滋賀の怪物――近間伊織。
天女の超高度の翼か、あるいは女王の絶対的な引力か。次なる死闘の幕が、宮島の水面の上で、静かに、狂暴に上がろうとしていた。




