浪速の鉄槌と泥の中の火花
二〇二九年七月二十一日。ボートレース宮島――G1「宮島レディースダービー」、予選三日目・第十一レース。
公式チャンネル「カササギ」のPVカウンターは早くも八千五百万を突破し、全世界の視聴者が、天女の快進撃を微塵も疑ってはいなかった。
しかし、ピットの奥深く、大阪支部の現役最古のレジェンド――坂田結衣さんは、冷徹な眼差しでモニターを射抜いていた。鎌倉明奈を育てた師匠。数値は十二万と弟子より少ないが、その密度の質が違う。
「天女だか何だか知らんけどな、あんな薄っペらい「衣」、一遍破れたらお終いや。甘いわ、お嬢ちゃん」
待機行動が始まった瞬間、三号艇の坂田さんが驚異的なピット離れから強引にイン枠へ潜り込んできた。あおいの純白のマブイが侵食され、スタートラインまでわずか百メートルという絶望的な「深イン」へと引きずり込まれた。
「坂田さん……あおいを走らせる前に、精神ごと圧殺するつもりか……」
ピットでモニターを握りしめる俺の声が震える。かつて俺自身が黒影に呑まれながら走り続けた記憶が、あおいの白い艇体に重なった。
大時計の針が動き出す。加速のつかない短い助走から、あおいは意地のタッチスタートをブチ叩いた。
「一号艇・守屋あおい――ST【.〇五】!!!」
第一ターンマーク。あおいは昨日の再現を狙って「天女の羽衣旋回」を始動させる。
「(大丈夫……俺は、水と一体になれる。衣を広げて……!)」
しかし、その旋回軌道の最も脆い頂点へ向けて、坂田さんの機体が牙を剥いた。十二万マブイによる圧倒的な質量を全て引き波のサージへと集束させ、相手の浮力特性を内側から爆破する空間圧殺旋回――「浪速の鉄槌」。
あおいの繊細な流体バランスへ、黒い過負荷引き波が衝撃波となってダイレクトに直撃。摩擦を失っていたプレーン艇は衝撃を逃がすことができず、空中で不規則に反転し、冷たく濁った宮島の泥水へと叩きつけられた。
「一号艇、守屋あおい――転覆失格!!!」
救助艇に引き上げられ、ピットへと戻ってきたあおいは、全身ずぶ濡れのままコンクリートの上で小刻みに震えていた。
回航してきた坂田さんは、愛弟子の鎌倉明奈から柴犬の小鉄のリードを受け取ると、あおいの前に影のように立ちはだかった。
「泥を啜る勇気もない奴に、王者の称号は重すぎるわ。……出直してきな」
俺はあおいに静かに声をかけた。震える肩を抱くことはしなかった。あおいが自分で立つのを待った。それが今の正解だと思ったから。
ゆっくりと顔を上げたあおいのヘルメットの奥――その瞳には、底知れぬ「黒い炎」が激しく宿っていた。
「……私、これくらいで、絶対に負けない。綺麗じゃなくてもいい。泥を啜ってでも、坂田さんに……あの人に、私の本当の「正解」を叩きつけてやるから」
あおいの瞳の奥で、純白のマブイが一度完全に消失し、その中心に小さくも極めて高密度な反転の核――クリア・シルバーの輝きが形成され始めていた。
予選三日目が終了し、あおいの得点率は急落。準優勝戦進出への条件は「一着絶対」という極限の崖っぷちへと追い込まれた。
墜ちた天女が、泥の中から這い上がる時が、近づこうとしていた。




