天女の羽衣(はごろも)
二〇二九年七月二十日。ボートレース宮島――G1「宮島レディースダービー」、予選二日目・第十二レース。
公式チャンネル「カササギ」のPVカウンターは、朝の試運転の段階で既に六千万を突破していた。
「……みんなに最近、誠くんとの仲について色々言われちゃったしね。このまま「支えるだけの人」で終わるつもりはないよ」
あおいの足元では、白いポメラニアンのヘラが主人の決意を感じ取り、低く唸っていた。第37話から共にいる、あおいの静かな相棒だ。
バイオリンクが勝負師のそれへと切り替わった瞬間、あおいの瞳の奥に、かつて誠が本能的に恐怖した、頂点を目指す勝負師の鋭い火花が灯る。
「誠くん……見てて。俺も、あなたと同じ「風」を掴んでみせる。支えられるだけじゃなくて、あなたの隣で、一緒に本物の空を飛びたいから」
一号艇のあおいから立ち上がり始めたのは、一点の曇りもない透明な輝き――「天女のマブイ」。
傾きかけた西日の残光が厳島神社の大鳥居に重なり、宮島の水面がオレンジ色に輝く中、運命の〇秒へと大時計の針が動く。
「一号艇・守屋あおい――ST【.〇二】!!!」
恐怖のノイズを完全に捨て去り、水面そのものと一体化した、絶対領域のタッチスタート!
第一ターンマーク。二号艇・山本玲奈さんの差しが懐へ滑り込み、四号艇・近間伊織さんの巨大な破壊質量が外側から押し寄せる。逃げ場のない圧死の空間。しかし、あおいはそこでハンドルを深く入れなかった。
「……水面を走るんじゃない。水面に「衣」を広げるの」
あおいがマブイを完全解放した瞬間、プレーン艇の周囲に爆発的な真白き霧が発生した。高密度の天女マブイが海水と反応し、カウル底部に摩擦抵抗を限りなくゼロにする極薄の流体磁気サージを形成する。「天女の羽衣旋回」——最高速のトップエンドを維持したまま、摩擦を極限まで中和して一マークを回航。玲奈さんの差しを空しく切り裂き、近間さんの捲りを白い霧のダウンフォースで弾き飛ばす、極純たる「柔」の完全完封だ。
「守屋あおい、インから一歩も引かない!! 後続を早くも三艇身引き離したぁ!!」
バックストレッチに出たあおいの真白き航跡は、水面を舞う天女そのものだった。
ピットに戻り、ヘルメットを脱いだあおいは、観客席の最前列で拳を白くなるまで握りしめている誠の姿を正確に捉えていた。
彼女は誠に向かって、小さく、しかし力強くガッツポーズを掲げてみせた。
貴方の真隣で、この世界の果てまで一緒に全速で滑空する——言葉を超えた誓いだった。




