第10話:大外一気の猛攻、島原攻防戦
2027年7月28日。長崎県、島原競艇場。
雲仙普賢岳を背にしたこの水面は、午後に入ると激しい西日が差し込み、海面は溶けた黄金のような輝きを放っている。有明海から流れ込む潮風は湿り気を帯び、水温はすでに30度を超えていた。からくり機艇のエンジンにとっては、呼吸するだけでも苦しい過酷な熱帯の戦場と化している。
予選最終日、第12レース。
速水誠は、汗が目に入るのを拭いながら、39号機の計器を睨みつけていた。足元では、流石のシロも、保冷剤を敷いた専用マットの上で「ふぅ、ふぅ」とバテ気味に舌を出している。プロのピットに犬が同伴することを許されているのは、シロが誠の精神安定だけでなく、潮の揺らぎを検知する一種の「生体センサー」として機能しているからだ。
「誠、俊樹。島原の潮は複雑や。それに、今日の長崎支部の攻めは……今までとは毛色が違うで」
ピットのモニター越しに、菜奈の警告が飛ぶ。その視線の先には、長崎支部の特攻隊長、森由美子がいた。
「山口の雛鳥たち! 夏の島原は、熱かぞーっ!!」
ピット離れの瞬間、森由美子の咆哮が無線を突き抜けた。彼女が選んだのは、迷いのない大外6コース。森のスタイルは、全盛期の上田校長を彷彿とさせる「大外一気」。彼女の放つマブイは、真夏の重い空気を強引に切り裂き、後方に物理的な「熱風」の壁を作り出す破壊力を持っていた。
誠のコア1000に対し、森由美子のマブイは18,000。数値以上の威圧感を与えるのは、彼女が島原の激しい潮流を熟知し、潮のエネルギーを自らのマブイに上乗せして加速する術を心得ているからだ。
「……俊樹、やるぞ。一貴さんの『無』を、逆転の発想で使うんだ」
「了解。……熱量を計算に組み込む。成功率は42%だが、やるしかない」
瓜生俊樹の冷徹な声が返る。マブイ0の彼は、周囲の不快な熱気さえも数値化し、最短の航路を割り出していた。
「大時計、始動!」
針が頂点を指すと同時に、水面が爆発した。森由美子の6号艇が、まるで普賢岳の噴火を思わせる凄まじいスタートを決める。
「どけえぇぇい! 長崎の風に飲まれなさいッ!!」
森の機体から噴射された熱マブイは、有明海の海面を瞬時に沸騰させ、後続の視界を真っ白な蒸気で奪った。そのままインコースの艇を一気に飲み込もうとする「捲り」の猛攻。通常であれば、誠の39号機はこの熱圧に弾き飛ばされ、転覆する運命だった。
しかし、誠はあえてハンドルを左へ切った。森の機体が撒き散らした、最も温度が高く、最も圧力の強い「引き波の芯」へと、自ら飛び込んだのだ。
「誠くん、正気!? 自殺行為よ!」
森が驚愕して叫ぶ。だが、それこそが誠と瓜生の秘策だった。
「……今だ! 排気バルブ、全開!!」
森が放った18,000マブイの熱圧を、先行する瓜生の「無」の整流板が、物理的な漏斗となって誠のエンジン吸気口へと強引に誘導した。他人のマブイを、自分のエネルギーとして奪い取る禁じ手――「ハイジャック・ブースト」。
誠の39号機のボイラーは、許容量を超えた熱量に悲鳴を上げ、蒸気圧はリミッターを容易に振り切った。
「溜まった熱……全部、チルト3.0の噴射口へ叩き込め!!」
誠がトリガーを引いた瞬間、39号機は水面を走るのをやめた。過剰な蒸気圧が機首を限界まで跳ね上げ、高速で押し寄せた森の引き波を「ジャンプ台」にして、誠の機体が宙を舞ったのである。
「なっ……機体が跳ねた!? 誠くん、それじゃ曲がれないよ!」
森の指摘は半分正しかった。通常の旋回なら、空中に浮いた機体はそのまま遠心力で外壁へ激突する。だが誠は、空中で噴射口の向きをミリ単位で微調整し、慣性を利用したスライド走行を披露した。森の捲りのさらに外側――誰も走っていない「空中」を飛び越えるようにして、第1マークを旋回したのである。
それは、まさに不死鳥が炎の中から飛び立つような、神がかり的な光景だった。
チェッカーフラッグが振られた瞬間、39号機はゴール板の先で力尽きたように停止した。
1着:速水誠。
2着:森由美子。
ピットに戻り、ボロボロになった39号機から降りた誠は、その場にへたり込んだ。そこに、ヘルメットを脱ぎ、悔しそうに髪をかき上げた森由美子が歩み寄ってくる。
「……負けたばい。まさかウチの捲りを、空へ飛ぶための『踏み台』にされるとはね。山口の新人、あんた相当な変態ばい」
森はそう言って豪快に笑うと、地元の名産である「長崎カステラ」の大きな箱を、誠と瓜生に差し出した。
「糖分を摂らんね。あんたたちの無茶な走りを見とったら、こっちまで脳が焼けそうになったばい」
誠は差し出されたカステラを口に運び、その上品な甘さにようやく人心地ついた。足元のシロも、一切れのカステラをもらって、ご機嫌で尾を振っている。
「ありがとうございます、森さん。……でも、本当にギリギリでした」
「ふふ、謙遜せんでよか。でも次は、もっと熱い『長崎・大村』が待っとるよ。あそこはボートレース発祥の地。ウチより気が短くて、魂が煮えくり返っとる先輩たちが山ほどおるけんね!」
森由美子の激励を受けながら、誠は沈みゆく島原の夕日を見つめた。18,000マブイの猛攻を、創意工夫と連携で凌いだ自信。だが、その先にある大村競艇場には、さらなる伝説たちが待ち構えている。
「……俊樹、カステラ食ったら、39号機の心臓部を総点検だ。明日は大村へ乗り込むぞ」
「ああ。……次は空を飛ぶだけじゃ済まないだろうからな」
島原の夜。火山灰が薄く降り積もるピットで、誠たちは次なる「発祥の地」での死闘に向けて、静かに刃を研ぎ始めた。




