飛びゆく蛍に輝く夢を
頭がずきずきする。
「…っ……い!」
誰かの声がする。
叫んでいるみたいな声。
誰の声?
「…いっ、…愛!」
この声は…。
……蛍?
どうしようもないくらい重たい瞼を、愛はかすかにこじ開ける。
青い空が見えて、自分が仰向けに倒れているのだと気がついた。
太陽の光がやけに眩しい。
「愛! 愛!!」
隣から嘆くような声が聞こえて、視線をゆっくりと動かせば、すぐさま蛍が常に被っている狐の面が目に入ってきた。
たった少し首を動かしただけで、この激痛。
手放しに無事だったとは言い難いようだが、蛍の手前なんとか笑顔を貼り付ける。
「……蛍」
「愛っ!!」
途端に蛍が縋りついてきた。
重さこそない蛍だが、寄せてくる体はとても温かい。
「よかった、よかった……、本当によかった。もうちょっとしたら、さっきの地滑りに気がついた地元の人間がやってくる。きっと、愛は助かるから!」
蛍は愛の腹辺りに顔をくっつけたまま大きく肩を震わせ、たくさん嗚咽をこぼしていた。
もしかしなくても、蛍は泣いてくれているようだ。
くすぐったい気持ちに愛の顔が緩む。
「も――…そんなに泣かないでよぅ、蛍」
「泣くに決まってるでしょ! だいたい泣いてなにが悪いっ!!」
「悪いことはないんだけどさぁ」
「愛が、……愛が! 死んじゃったかと思ったんだからね!」
「でも、生きてた。ちゃんと生きてたー!」
「愛の癖に、俺に心配かけるなんて4百年は早いんだからっ」
まったく可愛げのない暴言を吐きながら、それでも大声を張り上げて泣いているのだから本当に蛍は素直じゃない。
けれど愛は、そんな蛍が心底愛しいと思う。
蛍は自らの悲惨な過去を話したときも、一粒だって涙を零したりしなかった。
なのに今は、愛のためにはこんなにも泣いている。
よしよしと撫でてあげたくて、愛は痛む右腕を無理やり持ち上げる。
愛の腹に突っ伏して泣いている蛍の後頭部を、そっと撫でてやった。
やっぱりはっきりとしないこの感覚は蛍独特のものだ。
―――と、蛍を撫でる愛の指が、彼が被っている狐の面の紐に引っかかる。
そのままするりと紐が解け、狐の面が蛍の顔から滑り落ちた。
それはからんと音を立てることもなく、重力に負け地面に到達することもなく、くべられた紙のようにすっと消えてなくなった。
そうして現れたのは、涙でぐしょぐしょに汚れ歪んだ蛍の顔。
蛍は言った。
狐の面が落ちたときは、呪いが解けたときだと。
今目の前にいる蛍は、その素顔を晒している。
それはつまり―――。
そのまま驚き絶句する愛を、蛍がぼろぼろと涙をこぼしつつもじっと見遣ってくる。
彼は年相応に幼く、性格とは真逆といってもいいほど愛らしい顔立ちをしていた。
ついその頬に手を伸ばしかけ、愛は改めて自分の手が傷と泥だらけなことに気がつけば、触れてはいけないような気がして引っ込めた。
けれどその愛の手を蛍がとって、自らの頬に押し付けてきた。
蛍は大粒の涙を惜しみなく零して、ぐちゃぐちゃな笑顔を愛に向ける。
その笑顔の可愛いこと可愛いこと、とても眩しく愛しいものだと愛は思った。
「…愛が、解いてくれたんだ」
「え?」
「思い出したんだ、あのとき願ったこと。さっき崖から落ちた瞬間、愛があのときの母親に見えたんだ…」
『あのとき』というのは間違いなく、蛍の最期の瞬間のことだろう。
深い憎しみと絶望の果てに、母親を呪い、この世を呪い、自らの境遇をも呪い、自身の魂を山に縛りつけた瞬間。
そしてそのとき願ったこととはつまり、解呪の方法。
「俺……名前を呼んで、手を伸ばしてほしかったんだ」
それは他の誰でもない、蛍をつき落とした母親に。
愛してくれなかった、最期まで守ってくれなかった母親に。
落下していく中、当時の蛍はかすかな愛情を期待した。
もし一瞬でも後悔して手を伸ばしてくれたら、母親のことを許そう、と。
これはしょうがないことだったのだと、すべて諦め恨むことなく死んでいこうと賭けたのだった。
結局、それは叶うことはなく、呪うきっかけと解呪となったわけなのだが。
突き落とされた瞬間をやけに強く鮮明に覚えていたのはこのせいだったのだと、今になればよく分かった。
いまだに仰向けのままの愛に、ぎゅうっと蛍がしがみつく。
そして愛の腹に顔を押しあてて、甘えるように擦り寄せる。
蛍は自分の存在が、ひどく曖昧なっていくのが分かった。
自分にはもう時間がない。
呪いが解けてしまった今は、むやみにこの世に留まることは出来ないということなのだろう。
そう悟ってしまった。
「ねえ、愛」
「なあに?」
「今度、愛の息子に生まれ変わって帰ってくるとき、俺、もうちょっとマシな性格になってくるからさ」
「えっ?」
「だから、だから…」
いっておきたいことはたくさんある。
たくさんあるのに、なのに浮かぶ言葉は一つしかないなんて。
認めるのは癪だけど、やっぱり自分はマザコンなのかもしれない。
蛍はゆっくりと顔をあげて、いきなりの発言に驚いている愛を見つめる。
それはそうだ、突然息子になるって言われたら驚くにきまっている。
でも、否定しないで。
嫌わないで、締め出さないで。
受け入れられる温かさを教えてくれたあなたに、懐いてしまったことを許してください。
「どうか今度こそ、俺を愛してください。おかあさん」
蛍は愛にとびっきりの笑顔を見せてやる。
必ずもう一度逢いに行くから、それまで自分を忘れないでと期待を込めて。
きっと愛なら、その名の通りたくさんの愛情を与えてくれるだろうと信頼を込めて。
驚く愛をそのままに、蛍の輪郭は溢れる無数の光の粒子に分解され、そして静かに儚く―――。
その日、ずっと昔に傷つき飛べずにいた小さなホタルが、ようやく癒えた羽を広げ山を飛び立った。
その山を麓の町の産婦人科のベッドの上から見つめる女性が一人。
窓から入ってくる風に、彼女の緩く結われた髪が踊る。
出産予定日を明後日に控えている彼女の腹は、細身ゆえによく目立つ。
3年前のあの山で、この一帯を襲った大きな地鳴りが原因の崖崩れに巻き込まれた愛は、その後まもなくやってきた山麓の住民らによって助け出されていた。
山の被害を確かめにきたという彼らが、愛を発見したのは本当に偶然で幸運だった。
すぐさま病院に運ばれ治療を受け、命には別条はなかったものの、打ち身があちこちにあってしばらくはずいぶんとひどい見てくれだった。
その後1ヵ月ほどで完治した愛は、この山麓の町で暮らし始めた。
ゼロからの生活は決して楽なものではなかったが、彼に言い渡された通りしっかり生きねばと踏ん張った。
なによりもう逃げることはしたくなかった。
そして自分を救出してくれた人らの一人と結婚し、今は幸せ過ぎるほどの毎日を送っている。
山に向けていた視線を、ふと自分の腹に落とす。
ずいぶんと膨らんだ腹を、愛は愛しそうに何度も撫でる。
脳裏を掠めるのは、山で出会ったあの少年。
小生意気で口が悪くてぶっきらぼうで、根はとても優しいのに傷つくのが怖くて臆病な男の子。
自暴自棄だった愛に、しっかり生きろと諭してくれた大人びた男の子。
愛してほしいと、ぐちゃぐちゃに泣いた笑顔の眩しい子。
「たっぷり甘やかしてあげるから、元気に生まれておいでよぅ、蛍」
へらりと笑った愛に応えるかのように、腹の内から蹴られたような小さな衝撃。
そんなのいわれなくても分かってるよ! といわれたようで、愛はくすりと笑った。
本編完結です。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。