エピソード2
「きゅぅ……」
兎は逃げなかった。
それどころか、撫でる手を追うように頭をわずかに傾け、青白い角の根元を押しつけてくる。
もう一度、指を滑らせる。
「きゅー」
どうやら、そこが気持ちいいらしい。
腕の中ですっかり力を抜いている。
警戒心というものがないのだろうか。
――いや。
少なくとも、こちらに対しては。
そんなことを考えていると。
ピクッ。
兎の長い耳が立った。
さっきまで蕩けるように細められていた瞳が開く。
「……きゅ?」
顔を上げた。
こちらではない。
森の奥を見ている。
紫色の木々の向こう。
何も見えない。
けれど――
ザッ。
遠くで何かが動いた。
兎の身体が小さく震える。
「きゅ……」
今度の鳴き声は、さっきまでとは違った。
腕の中から逃げ出そうとはしない。
むしろ、小さな身体をこちらの胸当てへ押しつける。
……怖がっている?
ガサッ。
今度は近い。
木々の間から、小さな影が飛び出した。
一匹。
二匹。
三匹。
同じ兎だ。
どれも額に青白い角を生やしている。
けれどこちらへ寄ってくることはなく、必死に地面を蹴りながら、横を駆け抜けていく。
やはり――遅い。
いや。
違う。
兎たちは速い。
草を蹴り、綿毛を舞い上げながら、とんでもない勢いで逃げている。
なのに。
一歩一歩が見える。
舞い上がった一本一本の綿毛まで見える。
その向こう。
木と木の間から――黒い何かが姿を現した。
四本脚。
低い姿勢。
兎より遥かに大きい。
黒灰色の毛に覆われた、狼によく似た獣だった。
一匹。
その口には。
青白い角が一本――折れたまま咥えられていた。
「グルルルル……」
低い唸り。
狼はこちらを見た。
いや。
腕の中の兎を見た。
「……きゅぅ」
小さな身体が、さらに強くこちらへしがみついた。
先ほどと同じような距離。
しかし、先ほどにはない緊張感がある。
狼の目がうさぎからこちらに目をうつした。
瞬間。
狼は目を大きくした。
口もあんぐりと。
咥えていたうさぎは下にぽとっと落ちるのだった。
結構体躯のいい狼だ。先ほどまで猟奇的な眼をしていた。それでも不思議と怖さを感じない。
だからかな、狼のことより地面で伏しているツノの折れたうさぎのことで頭がいっぱいだ。
その子どうするの?
声が出ない。だけど指で指して示した。
僕は少し怒ってるかもしれない。
狼は最初驚いた顔を見せた後、少しだけ威嚇のように鼻をしかめようとしたけれど、僕の手と動きが被った。ビクッとして、そのまま鼻でうさぎを差し出すように押しながら頭を下げた。
これは伏せなのか?
それよりもうさぎか、
葉っぱでどれくらい血が流れているか分からない。ぐでっとしているが、僕はさっき少し耳が動いたのを見逃さなかった。
ゆっくりと近づいた。すぐ駆け寄りたかったけれど、左手にはうさぎを抱えている。そして頭を伏している狼。驚いて向かってくるかもしれない。
数歩歩いてうさぎと狼の前でしゃがんだ、またがシャリという、何かが地面に当たる音も。
血まみれで角も折れたうさぎ、虫の息だ。でもやはり生きてはいるように思う。背中に手をかざす。引っ掻き傷、そしてところどころは抉れている、これは噛んだ後だ。
可哀想に。
いたたまれない気持ちが押し寄せた。
痛いよね。辛いよね。
なんだか泣きそうになってきた。でも多分涙はでないんだろう。
そんな風に自分と話していたら、うさぎと手が光り始めているのに気づいた。




