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第6話:黒船は、無音の衝撃と共に

 予定より十日以上も早い、強襲。

 王宮の正門を潜り、白銀の装飾が施された豪奢な馬車が、滑るように中庭へと滑り込んできた。

 私、アンネ・ベルリッツは、レオ殿下の数歩後ろで、氷を飲み込んだような心地で立っていた。

 手元の『十四日間で学ぶ・王子的夜会作法(秘)』の教本は、まだ「ステップ3:囁き」のページで止まっている。昨夜の失態により、私の心肺機能が「ステップ4:熱い視線」の練習を拒否したためだ。

(……落ち着くのよ、アンネ。私はベルリッツ家の再興を背負った身。殿下の『初めて』を守るのは、すべて家のため。ビジネスよ。これは、極めて事務的な防衛任務……)

 自分に言い聞かせる「建前の盾」が、ミシミシと音を立てる。

 隣国の至宝、フェリス王女。

 噂に聞く「氷の姫君」が、我が主(推し)という名の無垢な子羊を食い荒らしにやってきたのだ。

「……アンネ。なんだか、空気がピンと張り詰めてるね」

 レオ殿下が、馬車から降りてくる従者たちの列を眺めながら、不安そうに私の袖を引く。

(……ダメ。その不安げな上目遣い、今の私には致死量。今はやめて。建前が、建前が剥がれる……!)

 私はあえて真顔を貫き、微動だにせず前方を見据えた。

 やがて、馬車の扉が開いた。

 現れたのは、磨き上げられた水晶のような美貌を持つ少女だった。

 レオ殿下と同じプラチナブロンドの髪を、複雑な縦ロールにまとめ、すべてを見透かすような冷徹な青い瞳。

 フェリス王女は、出迎えた国王陛下に流れるようなカーテシーを披露すると、真っ直ぐに――レオ殿下をも素通りして、私の前で立ち止まった。

 沈黙。

 彼女の視線が、私のつま先から頭のてっぺんまで、ゆっくりと、執拗にスキャンしていく。

 

(……来る。品定めか、あるいは宣戦布告か)

 私は「鉄面皮」をさらに強固にし、呼吸を止めた。

 フェリス王女は、扇で口元を隠したまま、私の耳元にスッと顔を寄せた。

「……アンネ・ベルリッツ。単刀直入に伺いますわ」

 冷たく、けれど凛とした声が、鼓膜を叩く。

「……今の、レオ様の左斜め四十五度からの後頭部。あの、一房だけ跳ねた毛先が、初夏の微風に三ミリだけ揺れた瞬間……貴女、どう思いました?」

「………………」

 思考が停止した。

 絶叫も、鼻血も、出てこない。

 ただ、広大な宇宙の真理を目の当たりにしたかのような、深い、深い虚無。

(……あ、死んだ。今、私の意識が成層圏を越えたわ)

「……お答えなさい、メイド。あの瞬間の殿下の造形美を、貴女の卑俗な語彙でどう定義したのか、私は知りたいのです」

 王女の瞳は、もはや「氷」ではなかった。

 そこにあるのは、獲物を狙う肉食獣のそれではなく、同じごうを背負った修羅の輝き。

 私は、震える唇を開いた。

 もはや「没落令嬢」でも「教育係」でもない、魂の叫びが漏れる。

「……『慈悲』、です。あの一房の跳ねは、全人類に与えられた救済に他なりません。特に、風に抗おうとして抗いきれず、最後には諦めたように揺れるあの軌道……。あれは、神が描いた放物線です」

「…………っ!」

 フェリス王女が、大きく目を見開いた。

 彼女の手から扇が滑り落ち、カラン、と石畳に乾いた音を立てる。

「……放物線。そう……そうですわ。あれは力学ではなく、神学の領域……! お姉様、貴女……『分かって』いらしたのね……!」

 王女が、私の両手をがっしりと掴んだ。

 先ほどまでの冷徹な威圧感はどこへやら、彼女の顔は陶酔に近い熱に浮かされている。

「隣国の諜報部から、殿下の側に『やたらと鼻血を出す変なメイドがいる』と聞いた時は、不潔な女だと切り捨てるつもりでしたわ。けれど、今の言葉で確信しました。貴女こそが、この聖域を守るための、私の『戦友とも』であると!」

「……ええ。お嬢様……いえ、王女殿下。私も、貴女のような『本物』が隣国にいらしたことに、今、深い連帯感を感じております」

 中庭に、奇妙な静寂が訪れた。

 手を握り合い、レオ殿下の後頭部を見つめて深く頷き合う、メイドと姫君。

「……ねえ、カイル。あの二人は、一体何をしてるの?」

 置き去りにされたレオ殿下が、困惑した顔で弟王子に尋ねる。

「……さあな。兄上の知らないところで、最強の『防衛網(壁)』が完成したってことだけは確かだ」

 手帳に『同担の融和:脅威の加速』と書き込むカイル殿下の筆先も、心なしか震えている。

 国王陛下が、遠くから満足げに頷いた。

「案ずるなレオ。女同士の友情は、共通の『敵』か、共通の『崇拝対象』があれば一瞬で芽生えるものだ」

 こうして、世界で一番尊いレオ殿下の「初めて」を巡る戦いは、**「同担拒否の抗争」から「二大巨頭による共同プロデュース」**へと、その姿を変えたのである。

 ……しかし、アンネはまだ、気づいていない。

 二人のオタクが熱心に語り合う背後で、レオ殿下が、これまで一度も見せたことのない**「獲物を見定めたような昏い笑み」**を浮かべていたことに。

「……ふふ。二人とも、僕に夢中で可愛いね。……もっと、熱くしてあげるよ」

 魔王の囁きは、風にかき消され、誰の耳にも届かなかった。



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