第5話:余計な助言は、純粋な心にとっての毒でしかありません
翌朝。私の目の下には、うっすらと隈が浮かんでいた。
理由は明白。昨夜、レオ殿下に抱きしめられた際の感触と、「アンネ以外とはしたくない」という殺人的なセリフが、脳内で無限ループ再生されていたからだ。
(……ダメよ。しっかりしなさいアンネ。あれは殿下の天然……そう、慈愛の心が溢れ出しただけ。他意はないわ。断じてないはずよ……!)
自分に言い聞かせながら、ふらふらと廊下を歩いていると、背後からガシッと肩を掴まれた。
「よお、教育係。顔色が死んでるぞ。昨夜は一睡もできなかったか?」
現れたのは、騎士のアルベルトだ。その隣には、相変わらず手帳を片手にした第二王子のカイル殿下までいる。
「……放っておいてください。私はこれから、殿下の朝食の準備があるのです」
「まあ待て。お前にいいモノをやる。陛下からの差し入れだ」
アルベルトがニヤニヤしながら差し出してきたのは、古びた一冊の本だった。
表紙には金文字で――『王宮秘伝・女性を蕩けさせる禁断の囁き集』。
(――燃やしていいかしら、これ)
「陛下がな、『レオにはまだ早いかもしれんが、アンネがこれを使ってリードしてやれば、フェリス王女もイチコロだ』と仰ってたぞ」
「兄上は声が良いからな。これを読ませれば、お前の心臓も少しは鍛えられるだろ」
カイル殿下が、眼鏡の奥で楽しそうに目を細める。
この人たち、本当に……! 殿下の清らかな口から、こんな卑俗な愛の言葉を吐かせろと言うのか。そんなの、解釈違いどころか歴史への冒涜だわ。
「……お返しします。殿下にそのような小細工は不要です。あの方は、存在そのものが愛の結晶なのですから!」
私は本を突き返し、足早に立ち去った。
*
だが、その日の午後のレッスン。
私の予想を裏切る事態が起きた。
「……アンネ。あのね、さっきアルベルトに、これを読んでおくといいよって渡されたんだけど」
レオ殿下が机の上に広げていたのは、紛れもなくあの『禁断の囁き集』だった。
(あの野郎……! 直接殿下に渡しやがったわね!!)
「殿下! それは……その、まだ殿下には早いというか、不適切な内容が含まれておりまして……!」
「えっ、そうなの? でも、すごく素敵なことが書いてあるよ。……例えば、これとか」
殿下が立ち上がり、私のすぐ目の前で立ち止まる。
そして、私の耳元に顔を寄せ、吐息がかかるほどの距離で低く囁いた。
「『君の瞳に映る僕だけが、君の真実でいたい』……これ、どういう意味かな?」
(ぎゃあああああああああああああああああああ!!)
脳内で、百人規模のアンネたちが一斉に絶叫し、のたうち回った。
殿下の低音。耳元をくすぐる温かい吐息。そして、教科書通りのキザなセリフが、殿下の「至高の声」によって究極の愛の告白へと昇華されている。
「あ、ア、アアア……っ」
「アンネ? どうしたの? 顔、さっきよりずっと赤いよ」
殿下が心配そうに、私の頬を両手で包み込む。
手のひらの熱が、私の沸騰した脳をさらに煽る。
「……ねえ、アンネ。これ、王女様にも言わなきゃいけないの? 僕は……できれば、今のアンネみたいに、僕の言葉で赤くなってくれる人にだけ言いたいんだけど」
(……ドパァッ!!)
ついに、私の鼻から一筋の赤い情熱が噴き出した。
「アンネ!? 血! 血が出てるよ! やっぱり病気なんじゃ――」
「だ、大丈夫です……! これは、殿下の尊みが、私の許容量を超えて溢れ出しただけですので……!」
私は鼻を押さえながら、今夜三度目の退散を決め込もうとした。
だが、今度は殿下が私の服の袖をぎゅっと掴んで離さなかった。
「行かないで、アンネ。……僕、もっと知りたいんだ。アンネがどうしてそんなに赤くなるのか。どうすれば……アンネがもっと僕のことを見てくれるのか」
無自覚。
この人は、自分がどれほど残酷なまでに魅力的なのかを、全く分かっていない。
(無理。……やっぱり無理よ。お家再興のため、側室になるため……そんな理由で始めた教育だけど、このままじゃ殿下に『教育』されるのは私のほうだわ……!)
その時。
窓の外から、けたたましい馬のいななきと、ラッパの音が聞こえてきた。
「――報告いたします! 隣国より、フェリス王女殿下の先遣隊が到着いたしました!」
外から響く兵士の声。
予定よりさらに早い。あと二週間どころか、もう門の前まで来ている。
「フェリス王女が……来たの?」
殿下が、不安そうに窓の外を見る。
私の心に、焦燥感が走る。
まだ「囁き」の段階でこれなのに、本物の姫君を前に、殿下をリードさせるなんて今の私にできるのか。
(……いいえ、やるしかないわ。あんな得体の知れない王女に、殿下のこの『無自覚な魔性』を独占させてたまるもんですか!)
鼻血を拭い、私は再び鉄面皮を貼り付けた。
「殿下。……準備を急ぎましょう。フェリス王女を、最高の……いえ、適度な距離感でお迎えするために!」
没落令嬢アンネ、最大の危機。
ついに「解釈違い候補」であるライバル姫が、そのベールを脱ごうとしていた。




